2020年の今 私たちは何をなすべきか

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コロナの中で生きている毎日。ふと、両親のことを思い出した。大正時代に生まれ、昭和、平成と生き抜いた両親。日本がまだ発展途上国で貧しかった時代を必死に生きた両親のことを。時代に翻弄され、貧しさの中、個人としての夢や希望など到底持てなかった。青春は戦争。父は戦場で死線を彷徨った。母も空襲の中、東京で一人生き抜いた。父は、インドネシアパレンバンに向かう途中、乗っていた貨物船がアメリカ軍の魚雷攻撃を受けて撃沈されたが、九死に一生を得た。母は、アメリカ軍の爆撃と機銃掃射の中を生き延びた。私は、そうした話を聞かされていたのに上の空だった。私の人生と比べると、想像もできない人生だったからだ。

国家の指導部やそれに組する上級国民の面子や都合のために、想像を絶する苦労と辛酸を嘗めさせられた両親。それなのに運命を正面から受け止め、裸一貫、自分たちの力で家庭を作り子育てをした。その努力と忍耐に畏敬の念を抱かざるを得ない。第二次世界大戦の焼け野が原から、今の日本を創り上げたのは、私の両親のような名も無き日本人の努力と忍耐の賜だ。名も無き日本人の成果をかすめ取った政治家や官僚の手柄などでは決してない。

皮肉な話だが、私は父と母を殺そうとしたアメリカに留学した。こんな言い方をすると身も蓋もないが、なぜか両親はアメリカに対して敵意を持っていなかった。それで、私もアメリカについては好意しか持っていない。私が卒業したコーネル大学には、第二次世界大戦で戦死した卒業生の名前が刻まれた碑がある。それを見たとき、私の両親と同世代のアメリカ人も、とても辛い思いをしたのだろうと涙した。

コロナの現代に戻ろう。素晴らしい科学文明を創り出した人類も、所詮は生物。隕石の衝突で絶滅した恐竜と同じ。未だ、地球規模のディザスター(災害)やパンデミックを回避するには至っていない。これまでの知識や経験だけでは到底抗えないコロナに立ち向かわなければならない今、私たちにできることは一体何だろう。

本来ならば国家と国民が一丸となってコロナに立ち向かわなければないときに、国民の足を引っ張る「政府」。しかし、当てにならない「政府」が悪い、「政治」が機能していないなどと言ったところで何も解決しない。

一部の政治評論家は、コロナへの対応には「政治判断が必要だ」などと戯れ言を言っているが、文系学部卒の「サイエンス拒否男的」世襲政治家の「政治判断」なんて、悪夢以外の何者でもない(どこかで聞いたセリフみたい)。

役に立たない「政治判断」など放っておいて、私たち名も無き国民一人一人が、今こそコロナに立ち向かわなければならない。私たちが心の中にしまってきた、よりよい日本を創り出そうという志しや気概。それを発揮しなければならない。これまで一生懸命に身につけてきた力を、コロナに立ち向かうために使い尽くすときがきたのだ。私たちの貴重な能力や時間を、どうでもよい「政府」や「政治」への怒りに無駄遣いするのはもう止めよう。私たち一人一人が、真摯に揺るぎない信念を持ってコロナという災厄に立ち向かわない限り、日本には、どんな未来も描けないのだから。

私たちの怒りは、次の選挙まで決して忘れずに、そっと仕舞っておこう。

 

2020年の世界に何が必要なのか思い出して欲しい

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情報通信技術の飛躍的な進歩により通信コストは著しく低下した。とりわけインターネットによる情報通信には、ほとんどコストがかからなくなった。これまで人類が営々と積み上げてきた膨大な知識や情報、日々世界中で大量に生み出される様々な情報が、サーバーやクラウドに保管され、世界中のどこからでも瞬時にアクセスできる現在。これまで支配層の人間しか知り得なかった知識や情報を誰でも知ることができるようになった。「民は由らしむべし、知らしむべからず」などという支配層の身勝手な思い上がりが駆逐される時代が到来した。

ところが、なぜか我が国の現状はというと、家業「政治家」という世襲議員に支配された封建時代に逆戻りの様相。「金太郎飴のような能力もプライドもない議員達によるアナログな政党政治」のおかげで、数だけをたよりの一党独裁で好き放題。一体いつからこのような国家に成り下がったのだろう。

本来、民主主義国家は、支配層の所有物などではなく国民のものだ。ただ、たくさんの国民の意思を国政に反映することなど物理的に不可能であったため、議員や官僚に国家の運営を任せてきたに過ぎない。ところがいつの間にか、任せられていた議員や官僚たちが、任せていた国民よりも偉い上級国民だと思い上がってしまった。とんでもない話である。あなたたちも国民である。しかも、その役割故に、国民への奉仕者としてより慎み深くなければならないのだ。

そもそも、我が国のような議員内閣制度をとる国では、行政府のトップである内閣総理大臣は、最大与党のトップである。このため、実質的に立法府である国会のトップでもあるという歪んだ構造となっている。本来ならば衆議院議長立法府のトップであるべきだが、衆議院議長の人事権を持つのは、所詮、最大与党のトップである内閣総理大臣。しかも、司法のトップである最高裁判所の長官も、日銀の総裁の人事権も内閣総理大臣の手にある。

結局、議員内閣制度をとる国では、三権分立など形骸化している。すくなくとも大統領制の国家ならば、国民が直接、行政府のトップである大統領を選ぶことができる。しかし、議員内閣制度の場合には、国民は地元の議員を選べるだけ。内閣総理大臣を選ぶことはできない。

制度の問題はさておき、そもそも、内閣総理大臣という「たった一人の人間」に、すべの国家権力を収斂させてもよいものだろうか。いいや、本当はこんな危険な仕組などあり得ない。人口が数十万人の国家ならば、まだそれでもよいかもしれない。しかし、一億人を超える人間の生活、ましてや生死を、本当に一人の人間に任せてよいものだろうか。

確かに情報革命前の時代ならば、たくさんの人間の意思や意見を集約するすべがなかったから許されたかもしれない。しかし、情報通信技術が飛躍的に進歩した現在、どんなにたくさんの人間の意思や意見であろうと、まとめ上げることが可能なのである。直接民主主義だって可能だろう。

そんな現在、なぜ、たくさんの人々の犠牲や努力の成果が、国家のトップ一人の名前や業績に置き換えられるのだろう。トップが責任を取って切腹でもするという制度ならまだしも、家業が政治家という世襲議員(人にもよるが)に交代でトップになられては、国民としてはたまったものではない。そもそも、国家の活動を、さもたった一人のトップが行なっているかのように擬制する古典的な代表制度など、この情報化社会では全く必要ない。そんなくだらない代表制度のせいで、トップが神か王のように思い上がって、これまでどれだけ多くの人が不幸のどん底や死の淵に追いやられてきただろうか。歴史を思い出して欲しい。

高度情報化社会となった現在、仮想現実すら創造できる私たちにとって、本当に「代表」とか「政治」というものは必要なのだろうか。いや、2020年の世界に、もう「代表」や「政治」などという「人を欺くだけで幸福をもたらさないもの」はいらない。それを今回のコロナが、私たちに教えてくれた。2020年以降の世界に必要なものは、私たち一人一人の個としての力だ。人類が生きていくために必要な生産活動や経済活動、教育・芸術活動などに、日々真摯に励んでいる私たちこそが、自らが進むべき方向性を決定すればいい。ITAIを駆使した「新民主主義」の時代の到来だ。

 

ゼロ金利と高齢化がもたらすもの

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昭和の時代には、現役時代に、国債養老保険や定期預金、さらには不動産や株式の運用などで、あまりリスクをとらずに金融資産を増やすことができた。定年後は、現役時代に蓄えた金融資産と退職金などの運用と年金で、安泰な老後生活を送れた。しかし、それは70代以上の人の話。現在のように、経済の停滞とゼロ金利が続く限り、普通の人が資産運用で利益をあげることなどできないだろう。そうなると老後も働き続けるしかなくなる。

昔は、働かないと退屈過ぎてボケるなどと言う人もいたが、現在の高齢者には、そもそも仕事を選り好みできる余裕などない。仕事があったとしても、賃金は安く労働環境も劣悪だったりする。もし、65歳以上の高齢者にも、妥当な賃金で普通に働ける仕事があれば、年金の繰り下げ受給者の割合が1%台などと言うことはないはずだ。

「高齢者は、好きで働いているのだから、働けるだけで満足だろう」などと勝手に判断され、劣悪な環境下で、我慢を強いられて働くようなことはあってはならない。蓄えのない高齢者が、いつまでも低賃金、劣悪環境で働き続け、心身を病むなどということが罷り通り、高齢労働者が、かえって、労働環境の破壊者となってしまうような世界など想像するだけでぞっとする。今こそ政治の力で、世代間の利害対立のない、共生社会を実現して欲しい。

 

 

低成長ゼロ金利の下での投資

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私が子供のころは、貰ったお小遣いを貯金すると、おそらく現在ならば数百万円を定期預金として預けたくらいの金利がついた。古き良き時代だった。

ゼロ金利の現在は、貯金をして少しずつ増えていく金利を楽しむという庶民の慎ましい夢も今は昔。収入が減り、その一方で、税金や社会保険料の負担が増える中、自助努力の名の下、自己責任で投資をしろと言われても。その道のプロである金融機関ですら利益を出せないゼロ金利の世界。金融弱者の庶民に、なすすべはない。

ゼロ金利の下で一般庶民は、資産を形成できなくなってしまった。それなのに政府は、一般庶民を相手に投資を推奨している。信じられない話だ。経済が成長せずデフレの上に、ゼロ金利の日本で、投資で儲けることができるのはプロの金融強者だけだろう。

株に投資をして株価が下がったら塩漬けにするなどというのは昔話。日経平均株価が上がらないばかりか、暴落してしまったら、遅かれ早かれ損切りせざるを得なくなる。一般庶民には、投資家がやるような空売りなどという芸当はできない。

おまけに、不動産の価格も右肩下がり。昔ならば、ローンで郊外に買った家を、何年か経って売却すれば、それだけでローンを減らした上に、前より大きな家を手に入れることができた。それも今は昔。

経済を成長させるためには資金を潤沢に行き渡らせる必要があるが、政府は、少なくとも、一般庶民から安全な資産形成の機会を奪うゼロ金利政策だけは緩めて欲しい。市場に潤沢な資金を投入したければ、一般庶民や労働者ではなく、プロの投資家を相手にできる資本市場にいくらでも資金を投入すればよい。すくなくとも日本国が破綻しない限りは、対価性のある取引を利用した資金投入なのだからリスクはないはずだ。

 

資本主義の末路が社会主義というパラドックス

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政府は市場に介入して一生懸命に「日経平均株価」を上げようとしている。株価が下がり日本経済が崩壊するという「最悪のシナリオ」を回避するためだ。それはそれで政府の政治判断であり、お任せするしかない。

それでは、株価が下がると、どのような不都合が生じるのだろう。企業のオーナーである株主の損失は増える。それでも、株式を処分しなければ評価損であって実損とはならない。しかし、評価損は金融の世界ばかりでなく実体経済にも影響する重大問題である。ただこの問題も、実体経済が回復すれば自ずと解消される。

株価が暴落すると「誰もが不況がきた」と考えて経済が冷え込む。企業活動は低迷する。採用は落ち込むし、設備や従業員のリストラもはじまる。企業の金融機関からの資金調達も難しくなる。中小企業や時代に取り残された大企業にとっては死活問題だ。ただ、内部留保を溜め込んだ大企業にとっては、大きな問題ではないかもしれない。

株価が下がると、企業が株式市場で資金調達をしようとする場合、調達できる資金が減少する。新規上場を目指す企業にとっても、上場時の株価が下がり調達できる資金は減少する。これは大問題である。しかし、実体経済が落ち込んでいるときに、増資や新規上場を企画する企業はあまりない。

それでは、政府自ら株式を買い上げてまで株価の暴落を防ぐことに、どのようなメリットがあるのだろう。それは、市場から「恐怖」を取り除くということだ。もし政府が平時に市場に介入してこなければ、その効果は絶大だ。しかし、平時から「ゼロ金利、円安、株高」を演出してきた場合には、何をやってもあまり効果は期待できない。

だからと言って政府が、効果が出るまで延々と株式を買い上げていけば、かえって、株式市場の方が破綻する。そこまでいかなくとも、日本の主要企業は、「筆頭株主政府」という国営企業のようになってしまう。どうせ、そこまでいったら、正社員ばかりでなく、フリーランス契約社員も、みんな公務員にしてしまえば、賃金や年金に対する不安も解消できる。この世から失業も不況もなくなり万々歳だ。待てよ、それでは、その昔どこかの社会主義者が唱えていた戯言の世界に逆戻りではないか。

まあ、そのようなことにはならないと思うが、一歩間違えば、「資本主義の末路は社会主義というパラドックス」が顕在化しかねないということを肝に銘じておきたい。

 

メディアの未来

 

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新聞は、無駄を省いて優れたコンテンツの作成とネット配信に特化しないと、10年経たないうちに消滅するだろう。

記事をネットで飛ばせばいいものを、特注の紙に、専用の工場で印刷して、トラックで販売所に運び、販売所の人間がバイクや自転車で、毎日一軒一軒配達するという時代錯誤。しかも、こうした手間は、記事の内容とは全く無関係。生産性度外視の古典的ビジネスモデルのまま。

株式や為替など、情報への瞬時のアクセスが不可欠な現代。一日経った情報に何の価値があるのか。スーパーの総菜だって、一日経ったら値引きが当たり前。それでもまだ、鮮度の落ちた総菜は食べることができる。鮮度の落ちた情報とは比較にならない。

新聞ばかりではない。週刊誌や月刊誌紙などの、紙に情報を印刷して販売する古典的なメディアは、間違いなく駆逐される。紙媒体の情報はエネルギーと資源の無駄い。重くて破れたり汚くなるうえに保管に場所をとる。そのうえ、紙媒体のままでは、情報を検索しようにも、検索エンジンすら使えない。不便きわまりない。この現代に「荘厳なアレキサンドリア図書館のパピルスの蔵書」なんてコンセプトは無用の長物。

おそらく、テレビというメディアも、10年経たないうちに、有料化に成功したネットワーク数社に淘汰されるだろう。

今のテレビは20%の視聴率がMax。それも限られた番組だけ。普通はMax10%というところだろう。最近では、高視聴率の番組といえはニュースばかり。ドラマやバラエティなどの栄華を誇っていた芸能娯楽番組は10%にも届かない。

斜陽化しているこの国で、テレビだけが、メイド・イン・ジャパンは凄い、大田の町工場は世界一だとか、東大王などと、島国根性丸出しの井の中の蛙のまま。未来のために国を挙げて、拡大する格差を止めようとしているのに、セレブや芸能人、スポーツ選手の金持ちぶりをアピールするくだらない番組の垂れ流し。テレビの中だけは、未だに30年前のバブルのまま。こんなメディアに未来はないだろう。

 

 

 

独占禁止法違反にみる会社の自浄能力劣化のプロセス

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会社では、利益を上げる事業部門の社内でのステイタスは上がる。そして、部門のステイタスが高くなれば、人、物、金の経営資源をより多く使うことができるようになる。当然、その部門で働く人間の個人業績も向上する。しかも、人事考課も報酬も業績連動だから、人事考課は良くなるし報酬も増える。良いこと尽くめだ。そんな良いこと尽くめの部門には、労せずして甘い汁を吸おうと社内政治に長けた人間(いわゆる「社内政治家」)が集まってくる。

利益を上げて成長する事業部門には、他社との競争に勝ち抜き業績を上げてきた、能力と気概を持った社員が多い。だからこそ業績を伸してきたのだ。ところが、業績向上による組織の拡大に伴い、砂糖に群がる蟻のように社内政治家たちが集まってくる。彼ら彼女らは、日頃から、社内のどの部門に行けば出世コースに乗れるか、鵜の目鷹の目で探している。そんな社内政治家たちがいつの間にか、手練手管で元々その部門にいる人間の上に立ちコントロールするようになる。そうなると、部門創業期のようなコスト、技術、営業力で真剣勝負をするという正攻法なビジネスなどまどろっこしくてやってられないということになる。もっと手っ取り早く儲ける方法はないのかということになる。そうなると社内政治家の独壇場だ。「ビジネスは儲かりさえすれば結果オーライ」、「コンプライアンスなんて糞食らえ」と労せずして利益を上げられるブラックな仕組み作りに奔走する。

手っ取り早い方法としては、独占禁止法違反行為がある。本来ならば競争すべき同業他社と結託して競争を制限し、市場価格を自由自在に操り、労せずして利益を上げられるからだ。しかし、そんなことを続けていると当然のことながら競争力は著しく劣化する。競争力が劣化するから、結局、ますますブラックな仕組みに頼らざるを得なくなるという悪循環に陥る。そんな不正行為でも、露見せずに利益を上げている間は、誰も社内政治家たちに楯突くことはできない。まともな人間は部門から放逐され、社内政治家と配下の人間が牛耳るブラックな部門になっていく。

こうした部門では、同業他社との価格調整を司る担当者(いわゆる「業界担当者」)がエリート化する。しかも、それを助長するような人事処遇や評価まで行なわれるので、業界担当者に対しては、誰も意見を言えないし、批判もできくなる。そのうちに、業界担当者への過度な権限委譲が進み、決裁が形骸化し、実効性ある内部統制が行われなくなる。これだけでも大問題なのだが、これに加えて、管理部門による牽制が機能しなくなると、強い事業部門の力で管理部門が骨抜きにされ、事業部門の決定を追認するだけの脆弱な管理体制になる。ここまで来ると、もう止まらない。最終的には経営陣までもが、利益を優先して法令違反の事実を正面から取り上げないばかりか隠蔽までしようとする。もはや万事休す。会社自体の自浄能力は著しく劣化する。

儲けてさえいれば法令を遵守しなくとも、ある程度のことは許されるという大企業の驕り。社会的視点の欠如、ビジネスの原点の忘却、モラルの崩壊。所詮コンプライアンスは会社の対外的ポーズなどなど。市場環境の変化や顧客の視点を顧みず、重要なこと、核心に触れること、真剣に議論することを避け、ビジネスマンの本能である経済合理性すら見失ってしまう。大企業での不祥事の多くは、このような自浄能力劣化のプロセスを経て生じる。