グローバルスタンダード

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「グローバルなコロナ感染拡大」により「戦後最長の景気拡大」は、実感のないまま終焉を迎えた。大企業が、低金利、円安、労務費削減などにより蓄えた内部留保も、結局、日本や日本人に還元されることなく、リストラ財源として消えていくのだろう。

国は、政策として、大企業を優遇してきた。しかし、その大企業はといえば、資本の論理を貫徹するだけの「エコノミックアニマル」。その投資先は、最大の利益を得られる国や国民であって、日本や日本人ではない。

考えてみれば、日本の大企業と言っても、それは日本や日本人のものではない。株主のものだ。しかも、その株主に占める外資の割合は増大している。それどころか、経営不振のため、いつの間にか外国企業の傘下に入ってしまっているものもある。当然、経営陣にも外国人が増えている。

グローバル資本主義の下で、多国籍化した大企業は、国家に束縛されるのを嫌う。国家に税金を払うことすら疎ましく思うものだ。日本政府は、なぜ、そんな大企業に肩入れするのだろうか。そもそも、日本の大企業と言っても、それは日本の法令に従って設立されたというだけの話。外資過半数、あるいは、実質的な経営権が外資に握られてしまえば、最早「外国企業」。日本で設立された「日本法人」という意味合い以上の何ものでもなくなる。

グローバル資本主義の下で、資本の論理を貫徹する日本の大企業は、今や、日本や日本人とは無縁の、世界の資本家や経営者のものになっている。政府は、そんな「本籍地日本国」というだけの大企業を、国民を犠牲にして、いつまで優遇するのだろう。

日本政府は、少子高齢化などで国際競争力が落ちてしまってから、押っ取り刀で、米国流のグローバルスタンダードを受け入れ、経済再生の道を模索してきた。その中で、資本の論理を貫徹する大企業を後押ししていくうちに、政府自体が、グローバルスタンダードに感化され、いつの間にか、資本の論理を貫徹する「エコノミックアニマル」に変貌し、日本や日本人とは無縁のものになってしまった。

今、コロナのせいでグローバルスタンダードは崩壊し始めている。国家の干渉を嫌ってグローバル化した多国籍企業は、多国籍化したが故に、かえって「グローバルなコロナ感染拡大」の影響をもろに受けている。とは言うものの、国家の干渉を嫌うグローバルなプロの経営陣のことだから、直ぐに対応し解決できると思う。問題は、大企業の真似をして国家の運営に資本の論理を持ち込んだ日本政府の方だ。元々ドメスチックでアマチュアレベルの国会議員や官僚の力で、対応し解決できるものか甚だ疑問だ。

もうここらで、日本人、一人一人の幸福をもたらさず、格差を拡大するだけの「グローバルスタンダード」と一線を画した、日本流の資本主義を目指すべきときだろう。

 

 

アメリカの大学に関する都市伝説的な誤解【1】

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なぜか日本には、アメリカの大学に関して、次のような都市伝説的な誤解がある。

(1)アメリカの大学は、入るのは易しいが、卒業するのは難しい。

(2)アメリカでは、どの大学を卒業したかなど、あまり重要ではない。

この都市伝説の由来として、次のようなことが考えられる。

昔、はるばる日本にまで来てビジネスをしようというアメリカ人には、大卒と言っても、アイビーリーグのような一流大学卒などあまりいなかったからだろう。

アメリカの一流大学は、今も昔も「入るのも出るのも難しい」。しかし、州立大学やコミュニティカレッジの中には、ほとんど無試験で入学できるところもあり、当然のことながら、入学者のレベルは低く、卒業できない人も多い。だから、頑張って卒業できたアメリカ人が、アメリカの大学事情を知らない日本人の前で、「アメリカの大学は、入るのは易しいが、卒業するのは難しい」と言って自慢したのだろう。自分が卒業した大学に限った個別の事情を、あたかもアメリカの全ての大学に共通する事情のように誤解させたことに由来する都市伝説だ。

このように、日本に来たアメリカ人に一流大学卒がいなかったので、彼ら、彼女らの口から、「アメリカでは、どの大学を卒業したかなど、あまり重要ではない」という自己肯定的な詭弁まで出てきたのだろう。しかも、昔、日本からアメリカに留学した人の多くも、レベルの高い大学に入れなかったので、その言い訳として都合の良い「アメリカでは、どの大学を卒業したかなど、あまり重要ではない」という自己肯定的な詭弁が拡散したのだろう。誰だって「アメリカの大学にはランクがあり、私が卒業した大学はFランクだった」などと自己否定的な事実を言うはずはないのだから。とにかく昔は、アメリカに留学したというだけで凄いと驚かれた。どこの大学を卒業したかなんて詮索されることなどなかった。なにしろ、当時の日本人でアメリカの大学名を知っている者などいなかったからだ。このあたりが「どの大学を卒業したかなど、あまり重要ではない」という都市伝説のルーツだろう。

今でも日本では、留学したと言っても、私立のアイビーリーグスタンフォード、MIT、州立のバークレイやミシガンなどの一流大学や大学院を卒業した人は少ない。しかも、そうした人は、巨大企業や中央官庁、学者や国際弁護士などという特殊な世界の住人。日常、接する機会はほとんど無い。そんな訳で、一般人には、アメリカの大学に関する諸事情を知るすべが無く、いつまで経っても、アメリカの大学に関する都市伝説的な誤解が放置されてきたようだ。

アメリカでは、一流大学への入学準備は、子供がプライマリースクール(小学校)に上がる前から始まる。なにしろ一流大学のハードルが高いからだ。アメリカは、日本以上の学歴、学校歴社会。大学、大学院はランキングされ、どこの大学、大学院を卒業したかで、就職先や初任給にまで差がつくばかりか、その後の出世にも影響する。

ランキングのトップクラスの大学に合格するには、共通学力試験であるSAT、ACTでの高得点に加え、学業成績であるGPAでストレートAに当たる4.0にいかに近づけるかが争われる。その上、スポーツ、芸術、学内外での様々な活動や有力者の推薦など、志願者のオールラウンドな資質が問われる。まさに、日本の大企業への就職と同様。学業ばかりでなく、学業以外のいろいろな活動や、文化、芸術への興味、いかに充実した生活を送ってきたかという自己アピールも重要。結局、全人格的評価の結果、全ての面においてマイナスのない志願者でないと一流大学には合格できない。というのも、アイビーリーグスタンフォード、MITのような、私立のトップクラスの大学の入学者数が、日本の大学とは比較にならないほど少数だからだ。

とにかく、アメリカの入試制度は、共通学力試験プラスAO入試なので、学力、内申、人物、社会貢献度、一芸などの幅広いポテンシャルを持っていないと合格できない。このため、日本のようにペーパー試験で一発逆転というわけにいかないばかりか、浪人をして捲土重来を期すこともできない。こうした点では、日本より残酷な制度とも言える。

 

新民主主義

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今の日本社会は、貧しい者、生き方が不器用な者、様々な事情で学歴を得られなかった者、就職や転職に失敗した者、さらには、真面目で我慢強いにもかかわらずチャンスに恵まれなかった者に冷たい「敗者復活のない社会」。彼女、彼らのような普通の人たちが、この日本を支えているというのにだ。

思えば、第二次世界大戦以降、75年の長きにわたり、名も無き普通の人たちのおかげで、日本では革命もクーデターもない平和で安定した社会が続いてきた。本来ならば今頃、これに貢献してきた名も無き普通の人たちが「権力」や「富」を握っていてもおかしくなかったはず。ところが皮肉なことに、平和で安定した社会が続いたが故に、「世襲」や「縁故」が蔓延る階級社会となってしまった。

世襲政治家の家に生まれさえすれば、親の政治力と金で学歴を買い、強力な縁故で就職でも何でもできる。それで上手くいかなかったとしても、最終的には「家業の議員」になるだけ。そうなれば、途中経過など、もうどうでもよい。羨ましい限りである。

立法府の国会を俯瞰すると、自民党世襲議員による一党独裁の好き放題。野党はと言うと、「歳費」と「政党交付金」を使って、自民党世襲議員のような上級国民に這い上がろうとする輩の足の引っ張り合い。「もうこんな民主主義なんていらない」と誰もが思う惨状だ。このあまりにひどい国会の体たらくの中、国政を支える行政府が頼りになるかと思えば。こちらでも、日本の最高学府を卒業した官僚たちが、いつの間にか世襲議員の顔色をうかがうだけの執事になり下がってしまった。「若者よ、これが日本の民主主義の現実だ」と叫びたくなる。

所詮、貧乏人は頭が良くても貧乏人。いくらエリート官僚と自負したところで、金持ちの世襲議員には、生涯、勝てない。そうは言っても悔しくないのだろうか。官僚を目指して勉強していた頃のあなたたちだったら、家柄や金持ちだけが取り柄のボンボンの言うなりにはならなかったはず。そう、彼らは、あなたたちとは違い、自分の力では何者にもなれないような連中なのだから。それなのになぜ、そんな連中のために能力を無駄遣いするのだろう。世襲議員の尻拭いに明け暮れるトラブルシューターとして官僚人生を終えるだけでいいのだろうか。

まあ、こんなつまらない話はこのあたりにして、次に進もう。

昔、「ミニ政党」がブームになったことがある。しかし、当時は今のように金のかからないSNSのような便利な「連帯のための手段」がなかったので、社会を変革する大きなうねりにはならなかった。だが今は違う。日本国民の多くがSNSで繋がっているからだ。これまでは「声なき声」に過ぎなかった名も無き普通の人たちが、SNSを使って団結できるのだ。

私はあまり好きではないが、共産主義の有名なスローガンに「万国の労働者よ団結せよ」という言葉がある。これに習って「日本の○○○よ団結せよ」というスローガンの下に、志を同じくする人たちが、自分たちだけのために利己的に団結して「ミニ政党」を創る時代が来たのだと思う。

真面目な読者の中には、「自分たちだけのための利己的な政党」という言葉に抵抗を感じる方がいるのではないか。確かに、日本国憲法43条には「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」とある。国会議員は、衆議院議員参議院議員ともに、自分たちを選んだ人たちだけの代表ではなく「全国民の代表」でなければならないという民主主義の基本的イデオロギーが規定されている。

しかし、「そんなこと糞食らえだ」。世襲議員や、売名と金儲けのために議員になった輩が支配する国会が、生きるのに忙しくて選挙にも行けない名も無き普通の人たちに目配りなどするはずがない。

毎日、体を張ってこの社会を支えている人たちがいるから、あなたたち議員は、居心地のよい部屋で、高給を取ってのうのうと生きていけるのだ。そんな腐った輩に、これ以上好き勝手をさせないためにも、日本を支える名も無き普通の人たちが、今こそ団結しなければならない。来る選挙に向けて団結し、自分たちだけのための利己的な政党を立ち上げよう。

国民の利益なんて代表しない、国民を搾取するだけの「政治家の政治家による政治家のための政治」なんてもうご免だ。腐れ政治家の集まりに過ぎない「大政党」なんていらない。アメリカやイギリスのような「2大政党制」などという甘い幻想に惑わされた私が馬鹿だった。

「代表なくして搾取なし」これこそ日本社会を支える名も無き普通の人たちの「新民主主義」のスローガンだ。

 

人間の持つ不思議な力

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今思うと、不思議な体験をしたことがある。2歳のとき母に連れられて品川区の大井町に住む母と同郷の知人(女性)のお宅に伺ったときのことだ。母と私と1歳年上の兄の3人で。

そのお宅には広い庭があり池があった。当時の品川は、今では考えられないような田舎びた風景だった。私は1人で庭を歩いていた。2歳の子供なので、足下には注意を払わずに歩いていたら、池にすっぽりと落ちてしまった。母は知人と、私が見える和室で、私の方に注意を払いながら世間話をしていたので、私が池に落ちたことに直ぐに気がついた。

2歳だった私の目には、なぜかそうした一連の光景が鮮明に写っていた。私が池に落ちるのを見るやいなや、母も知人も大慌てになった。母が私を池から引き出したところで、知人は風呂を沸かし、着替させることにした。知人のお宅には、私の兄より年上の男の子がいたので、兄にその子の服を着せ、兄が着ていた服を私に着せるという段取になった。私はここまでのことを、会話を含め鮮明に記憶している。

2歳の私が、なぜこの一連の光景や、会話を理解して記憶できたのか。しかも、2歳のときのことは、これだけしか記憶に残っていない、不思議だ。

 

時代を変革する創業者のインキュベーターたり得る大学

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日本の大学教育を俯瞰すると、まさに「教養重視」。教養を身につけるのは良いことだ。しかし、現実の世界はアカデミズムとは無縁。ロシアや中国ですら、経済システムは概ね資本主義。資本主義社会は金を儲けた者が勝者。アカデミズムでは学者にでもなれなければ食えないのだ。

資本主義社会なのだから、大学は、学生に生きて行くために必要な金儲けの方法を効率的に教え込まなければならないはずなのに、大学は教養重視。教養が無意味とは言わないが、高尚な趣味の世界のようなもの。教養だけで生きていけるほど資本主義社会は甘くない。大学は教養と決別して、実社会で役立つことをもっと教えるべきだ。教養は高校までの教育に任せておけばよい。

大学受験に向けて教養を身につけるため、小中高と受験勉強に明け暮れ、晴れて大学合格。本来ならば、そこでギアチェンジして、教養と決別し、資本主義社会で生きていくための実践的な力を身につけさせるべきだ。

確かに昔は、教養重視の大学を卒業して「学士様」となれば、実社会である程度、出世できたし、金持ちにもなれた。しかし、そんな牧歌的な時代はとっくに終わっている。そろそろ大学は、教養と金儲けは別物だという現実を認めるべきだ。

大学教育は、「職業人となるための教育」でよいということをなぜ認めないのか。学者の方々が、実学を教養より下に見ているからではないか。そもそも、大学では、なぜ学者に学生を教えさせているのだろう。大学の教員が学者である必要などないのに。大学の教員だって、教える能力で選抜すべきだ。大学は、高い学費を払う学生に、実社会で通用する力を効率的に身につけさせるサービス業だと考えれば当然のことだ。

これまでの大学では、学士課程にもかかわらず、あたかも学者でも育てるかのような教育を施してきた。学者は大学院課程で育てればよい。学士課程は実学重視でよい。学生もそれをわかっているから、役に立たないアカデミズムに背を向けて、一流企業に入れるよう自分なりのスタイルで就活に向けて頑張っている。しかも、そうした学生の売りと言えば、頭よりも人間関係や人柄、スポーツや文化活動だったりする。一方、採用側も、学生の成績より大学名で採用するという時代錯誤が未だにまかり通っている。ただ、これはやむを得ないとも言える。学生を「成績」で選んだところで、その成績の中味が、実務では役に立たない「教養」に過ぎないのだから。採用側としても、新卒なんて即戦力にならないと重々承知の上だ。

昔はそれでよかったかも知れない。素材としての新卒を、採用後、時間をかけてじっくり育てる余裕があったのだから。そう、世界の企業価値ランキングの上位に日本企業がひしめいていた古き良き時代なら。しかし、今は違う。世界の企業価値ランキングの上位から日本企業が消えて久しい。企業が人を育てる「日本的資本主義」の時代は終わった。今は、人が企業を興す時代だ。20世紀には無名だった会社や、存在すらしなかった会社がたくさんある。遙か昔に、誰かが創ったビジネスモデルに依拠した大企業なんて生き残れない時代なのだ。近い将来、企業も、そして大学も、私たちの生存にとってあまり役に立たなくなる時代が来る。大学も変わらなければ生き残れない時代だ。だからこそ大学は、アカデミズムなど大学院に任せて、実学に力を入れなければならない。そうならなければ、ビル・ゲイツスティーブ・ジョブズのような時代を変革する創業者のインキュベーターたり得ないだろう。

 

 

「武器よさらば」バーチャル戦争の時代

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将来、AIITの力で、何もかもがバーチャル化していくと、そのうち「バーチャル戦争の時代」が来るのではないか。人と人が殺し合いをする代わりに、「バーチャル戦争」で決着をつける時代。今は、誰もそんなことは起こり得ないと思うだろう。しかし、今の世の中を見渡してみれば分かるとおり、100年前には誰も想像すらしていなかったものばかり。

とは言うものの、「バーチャル戦争」で負けたために、日本という国が消えて、どこかの国の支配下に置かれるなどという現実を、誰が甘受できるというのだろう。確かに、現在の私たちの感性からは、「そんなことは無理」となるだろう。しかし、人間の感性などというものは、時代とともに大きく変わるもの。「バーチャル戦争」が登場する未来の人間にとって、至極当たり前のことになっているのではないか。

とにかく、話し合いで解決できなくなった国際紛争を、誰も殺さず、何も破壊せずに決着できるような時代が到来するということは、素晴らしいことだ。

全ての兵器を無力化するプログラムや、レーザー光線や電磁パルスで、兵器を制御するAIIT機能を無効化できるようになれば、戦争などできなくなるだろう。とは言うものの、そんな時代になっても、AIITとは無縁な、銃や大砲や爆弾のようなアナログな武器は使える。ただ、そんなものは警察活動や治安維持には使えても、未来の国家間の戦争では、無力な過去の遺物となっているだろう。

ところで、戦争ができなくなった未来とは、どんな未来なのだろう。驚くなかれ、既にそれは、日本国憲法9条第1項「戦争の放棄」に書かれている。

世界の「国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というユートピアの世界だ。

ただ、戦争ができなくなったからといって、国際紛争が無くなるわけでははない。憲法9条第1項もよく読めば、「国際紛争は永久に無くならない」という前提で書かれている。権力者という者は、国際紛争を解決する手段としての戦争が大好き。そんな戦争大好き権力者のために必要なのが、誰も殺さず、何も破壊しない「バーチャル戦争」ということになる。

「バーチャル戦争」という新しいコンセプト創りについては、おそらく、ルールやスタンダードの構築が得意なアメリカ人が知恵を絞ってくれるだろう。後は、中国人とロシア人が素直にこの新しいコンセプトを受け入れてくれれば、お膳立ては万全。と思ったが、これでは武力による戦争がなくなるだけで、今と何も変わらないではないか。しかし、少なくとも、これで国際紛争を、誰も殺さず、何も破壊せずに決着させることができるなら、喜ぶべきことだろう。

コロナに囚われた日常、たまには「バーチャル戦争の時代」なんて想像してみるのも楽しいのではないか。おっと、ここまで書いてきて最後に気がついた。コロナのような生物化学兵器は、当分、無力化できそうもないということを。やっぱり「バーチャル戦争」なんて無理か。

 

 

 

経済が成長しない時代を生きる私たちのアプリオリな不幸

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平成、令和と30年以上にわたり経済がほとんど成長していない日本。経済が成長しないのにインフレにもならず物価が停滞していることが唯一の僥倖か。とは言っても、収入は上がらない。しかも、政府と経営者は、サラリーマンの収入を上げないどころか、賞与や定期昇給という右肩上がりの時代の厄介な遺物を取り除くために「非正規社員」という新しいコンセプトまで創造した。「これで万事休す」サラリーマンは生きていくだけで精一杯となった。かと言って、投資で儲けようにも、いかにも資本主義らしい企業優遇の「ゼロ金利政策」に追随する国ばかりの世界。トドメはグローバルな「コロナ不況」。これでは利回りを追求する投資など夢のまた夢。

高度成長期の日本は良かった。大企業の社員や公務員になれば、40年間は安泰。しかも高額な退職金や公的年金のおかげで、現役時代に老後資金のことなど考えなくても、優雅な老後を送れたのである。 

人口が増加し経済が成長していた時代の日本で「土地神話」も生まれた。まとまった金があれば、土地を買っておきさえすれば、それを売却して簡単に利益が得られた。株式投資も、長期に保有すれば必ず儲かった。一方、投資に無頓着な人でも、郵便局に貯金したり保険商品を買っておけば、元本は10年で2倍、30年で10倍になった。 

大企業に勤めて、昭和の末から平成の初期に、役員にまで昇格した人ならば、定年までに数億円の金融資産と不動産を手にすることができただろう。定年後には、そうした資産の利回りだけで年間数千万円の収入となったはず。現在、5億円を超える金融資産を保有する世帯を「超富裕層」と呼ぶようだが、当時、大企業で役員になった祖父がいる世帯は「超富裕層」ばかりだろう。 

そもそも、大企業で役員になるような人たちは、会社に入ってから飲食で自腹を切ったことなどない人ばかり。年間数百万円の交際費で、毎日飲食、週末ゴルフの贅沢三昧。午前様になっても、若いうちはタクシー券、役員になったら社有車。とにかく会社の金をたくさん使った奴ほど出世する。おまけに、中元、歳暮には、倉庫が必要なくらいの届け物の山。 

おそらくバブルの頃から、すでに格差社会は始っていたのに、下々の人たちまでバブル(経済成長)の恩恵を受けていたので、あまり気にならなかったのだろう。古き良き時代である。 

しかし、経済が全く成長しない現代を生きる私たちは、心しなければならない。政府は、経済が成長しなくなった我が国で、いまだに高度成長期のようなバリバリの資本主義復活を求めて、ゼロ金利というメチャクチャな経済政策をとっている。 

そもそも経済が成長しないのだから、企業収益など上がらないし、収入も増えないなどということは「自明の理」。そんなことは分かっているが、収入が足りない分の補完として投資をしたいのだ。しかし、ゼロ金利では、所詮、富が拡大しないゼロサムゲームの世界。莫大な利益を得るのは「情報」を創り出すことができる「スーパー富裕層」のみ。 

経済が順調に成長している時代に生まれていれば、平均的な能力と真面目な努力で豊かになれた。しかし、経済がほとんど成長しない時代に生まれてしまったために、平均的な能力と真面目な努力だけでは決して豊かになれなくなった。この冷徹な事実を自覚しない限り明日はない。 

ただ、言っておきたいのは「私たちが決して悪いのでない。時代が悪い。」ということだ。そう、隕石の衝突で絶滅した恐竜のように。