2020年の世界に何が必要なのか思い出して欲しい

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情報通信技術の飛躍的な進歩により通信コストは著しく低下した。とりわけインターネットによる情報通信には、ほとんどコストがかからなくなった。これまで人類が営々と積み上げてきた膨大な知識や情報、日々世界中で大量に生み出される様々な情報が、サーバーやクラウドに保管され、世界中のどこからでも瞬時にアクセスできる現在。これまで支配層の人間しか知り得なかった知識や情報を誰でも知ることができるようになった。「民は由らしむべし、知らしむべからず」などという支配層の身勝手な思い上がりが駆逐される時代が到来した。

ところが、なぜか我が国の現状はというと、家業「政治家」という世襲議員に支配された封建時代に逆戻りの様相。「金太郎飴のような能力もプライドもない議員達によるアナログな政党政治」のおかげで、数だけをたよりの一党独裁で好き放題。一体いつからこのような国家に成り下がったのだろう。

本来、民主主義国家は、支配層の所有物などではなく国民のものだ。ただ、たくさんの国民の意思を国政に反映することなど物理的に不可能であったため、議員や官僚に国家の運営を任せてきたに過ぎない。ところがいつの間にか、任せられていた議員や官僚たちが、任せていた国民よりも偉い上級国民だと思い上がってしまった。とんでもない話である。あなたたちも国民である。しかも、その役割故に、国民への奉仕者としてより慎み深くなければならないのだ。

そもそも、我が国のような議員内閣制度をとる国では、行政府のトップである内閣総理大臣は、最大与党のトップである。このため、実質的に立法府である国会のトップでもあるという歪んだ構造となっている。本来ならば衆議院議長立法府のトップであるべきだが、衆議院議長の人事権を持つのは、所詮、最大与党のトップである内閣総理大臣。しかも、司法のトップである最高裁判所の長官も、日銀の総裁の人事権も内閣総理大臣の手にある。

結局、議員内閣制度をとる国では、三権分立など形骸化している。すくなくとも大統領制の国家ならば、国民が直接、行政府のトップである大統領を選ぶことができる。しかし、議員内閣制度の場合には、国民は地元の議員を選べるだけ。内閣総理大臣を選ぶことはできない。

制度の問題はさておき、そもそも、内閣総理大臣という「たった一人の人間」に、すべの国家権力を収斂させてもよいものだろうか。いいや、本当はこんな危険な仕組などあり得ない。人口が数十万人の国家ならば、まだそれでもよいかもしれない。しかし、一億人を超える人間の生活、ましてや生死を、本当に一人の人間に任せてよいものだろうか。

確かに情報革命前の時代ならば、たくさんの人間の意思や意見を集約するすべがなかったから許されたかもしれない。しかし、情報通信技術が飛躍的に進歩した現在、どんなにたくさんの人間の意思や意見であろうと、まとめ上げることが可能なのである。直接民主主義だって可能だろう。

そんな現在、なぜ、たくさんの人々の犠牲や努力の成果が、国家のトップ一人の名前や業績に置き換えられるのだろう。トップが責任を取って切腹でもするという制度ならまだしも、家業が政治家という世襲議員(人にもよるが)に交代でトップになられては、国民としてはたまったものではない。そもそも、国家の活動を、さもたった一人のトップが行なっているかのように擬制する古典的な代表制度など、この情報化社会では全く必要ない。そんなくだらない代表制度のせいで、トップが神か王のように思い上がって、これまでどれだけ多くの人が不幸のどん底や死の淵に追いやられてきただろうか。歴史を思い出して欲しい。

高度情報化社会となった現在、仮想現実すら創造できる私たちにとって、本当に「代表」とか「政治」というものは必要なのだろうか。いや、2020年の世界に、もう「代表」や「政治」などという「人を欺くだけで幸福をもたらさないもの」はいらない。それを今回のコロナが、私たちに教えてくれた。2020年以降の世界に必要なものは、私たち一人一人の個としての力だ。人類が生きていくために必要な生産活動や経済活動、教育・芸術活動などに、日々真摯に励んでいる私たちこそが、自らが進むべき方向性を決定すればいい。ITAIを駆使した「新民主主義」の時代の到来だ。