「半沢直樹」以上に会社人生はドラマチックだ【1】

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会社人生、その中で、どれだけ様々な仕事をしなければならないかということを知ったら、誰もが驚くだろう。そこにあるのは、「半沢直樹」以上にドラマチックな世界なのだから。

私は、海外で仕事をしたいと言って鉄鋼メーカーに入社。当時の鉄鋼メーカーは、世界中に拠点を持ち、「商社をあごで使う」などと言われていた。希望がかない、60回を超える海外出張。フライトは全てビジネスクラス、羽振りが良かった。出張は、1回ごとに短くても2週間、長いときには2ヶ月。北米、欧州、インドが多かった。出張先で、次の出張を命じられて、世界を1周したこともある。

希望して海外業務に飛び込んだのだから、誰も助けてくれない。「社費で海外留学し、特殊教育を受けたのだから、おまえがやるのは当たり前」というのがコンセンサス。社員が数万人もいるのに、海外案件は、数人での対応。出張先のホテルから、本社に必死でメールを入れても、時差もあって、誰も読んでくれないなんて、至極当然。契約の調印に来た役員から「どこかに、いいキャバレーはないのか」と言われたことも。鉄鋼メーカーなんて、所詮、日本の高学歴を集めただけの多国籍企業。海外ではあまり役に立たないドメスチックな人間だらけ。切った張ったの海外事業は、商社に負んぶに抱っこだった。

「鉄は国家なり」と言われた時代に入社した時代錯誤な経営陣。第二次世界大戦で負けた腹いせか、戦略も戦術も無しにアメリカ鉄鋼メーカーを買収。これが大失敗。大金をアメリカに寄附しただけに終わった。鉄鋼メーカー衰退の原因は、こうした身から出た錆だった。

そうは言うものの、テレビドラマではないけれど、尊敬できる素晴らしい先輩や仲間もたくさんいた。そうした人たちが会社を支えていたのだ。実は、会社という組織のマジョリィティーは、「半沢直樹」的な真面目な人間。そこに、腐った「社内政治家」が混じってくることが問題なのだ。そういう輩を駆逐しないと、会社は崩壊する。そんな世界で長年生きてきた、そう、生き延びてきた私の会社人生を披露しよう。

高校時代までは、理系進学を目指していた。純真だった。しかし、なぜか金に目が眩み、腐った心で医学部を受けようとした。打算からの方向転換は、結局、上手くいかず、紆余曲折の末、中央大学法学部に進学。入学して驚いたのは、私大文系第一志望の学生の頭の悪さだった。わずか3教科で入れるのだから当然だが、とにかく勉強量が足りない。それなのに、多くの学生が司法試験を目指していた。身の程知らずにもほどがあるだろう。ただ、私も流されやすい性格だったので、とりあえず「郁法会」という司法試験受験団体に入った。それが、かえって、まずかった。卒業後も、受験勉強を続けているたくさんの先輩の姿を見て、司法試験への意欲が萎えてしまった。

思えば、当時の法曹のイメージは、今と違って「地味」。現在のようなアメリカ流の「企業法務」なんてない時代。国際性のないウルトラ・ドメスチックな世界だった。それで、司法試験はそこそこにして、英語と大学の成績(GPA)のアップに専念。これが、アメリカ留学のときに大いに役立った。

4年になる頃には、司法試験から完全に吹っ切れて、就活生として、会社訪問をしまくった。そのうちに、会社訪問慣れして、面接で落ちる気がしなくなった。訪問した会社全てに内定してしまったので、とにかく海外で仕事をしたいという本心に従って、最終的に「日本鋼管」に「新入社員代表」として入社。当時、日本鋼管の本社所在地は、郵便番号100番、東京都千代田区丸の内1丁目12号。地上18階、地下4階の自社ビルで、高層階から、皇居を眼下に見下ろす抜群のロケーション。まさかその後、リストラ担当として、本社ビルを売却することになるとは夢にも思わなかった。

地獄のような4年間の「工場での経理」を経て、入社5年目からアメリカのロースクールへ留学。当時は2年間という期間の制限だけだったので、法学修士号LL.M.)を2つ取ることができた。1年目は、ニューヨーク州郊外イサカにあるアイビーリーグの「コーネル大学」。美しいキャンパスと教養重視の大学。2年目はニューヨーク市マンハッタンにある「ニューヨーク大学」。こちらは実学重視。本当に楽しい日々だった。

ところが帰国後、なんと日本鋼管は、窮地に陥っていたのだった。請うご期待。