「菅首相」政治が国民の未来を変えてくれる時代はいつになったら来るのでしょう

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私たちは、自分の過去を変えることはできない。しかし、未来を変えることはできる。同様に、私たちは、日本の過去を変えることはできない。しかし、未来を変えることはできる。そう、「民主制」という政治により、私たちは、日本の未来を変えることができる。だから、私たちは政治に興味を持ち、期待し、参加するのだ。

これまで歴史の中で、神制、専制、貴族制、君主制独裁制など様々な政治形態が、生まれては消えてきた。民主制が当たり前の、現代の日本人から見れば、どれも異常な政治形態だろう。そうは言うものの、「国民が主権を持ち、行使する民主制」が世界の主流となってから、まだ100年も経っていない。しかも、この民主制、なかなか厄介な政治形態で、いまだに試行錯誤の真っただ中。

国家は国民の集合体なのだから、本来ならば、私たち国民一人一人に、国家の未来を変える義務と権利がある。しかし、そうはいかない。1億人を超える国民の総意に従って、国家を運営するのは、すこぶる難しい。そこで、国民が直接、国政に参加する直接民主主義ではなく、国民が代表を選出し、その代表が意思決定を行う「代表民主制」がとられている。ただ、この代表民主制が曲者。というのも、「代表」は「神」ではなく、「弱く愚かで罪深き人間」だからだ。とにかく、代表民主制という政治形態を、機能させるためには、より良き「代表」を選ぶこと、これに尽きる。

今、まさに、代表中の代表である「内閣総理大臣」を選ぶ時を迎えている。ところが、こんな重大イベントにもかかわらず、私たち国民は、蚊帳の外。国家の最高指導者を、直接選ぶことができないなんて、民主制否定のとんでもない事態だ。それなのに、テレビでは、政治評論家が、そんな我が国民主制の欠陥を棚に上げて、芸能レポーターのように、「ABが嫌いだから、Bが総理になることはない」だの、「前総理が影響力を持つのでC」だの、「政治の世界は、所詮は、好き嫌い」などと、あきれるばかりの低次元な論評。

そもそも、日本では、選挙に勝利した「多数党」が立法府である議会を牛耳り、「多数党」が行政府である内閣を構成し、「多数党」から選ばれた内閣総理大臣が、国家を統率、指導、統制する。ところがその実、「多数党」と言っても、小選挙区制の現在、国民の過半数の意思すら反映していない。

私たち国民は、日本国のリーダである内閣総理大臣を直接選ぶことができない。何年か前の、ろくな候補者もいなかった選挙で選ばれた、権力欲と利権にまみれたローカル議員の中から、時代錯誤で不透明な談合で、内閣総理大臣が選ばれるのを、指をくわえて見ているだけ。「議員内閣制」をとる日本では、権力欲と利権にまみれたローカル議員の中からし内閣総理大臣は選ばれない。そのせいで、「政治を家業とする世襲政治家」が幅を利かす。21世紀の現代、なぜ、こんなアナクロニズムな政治がまかり通っているのか、理解不能である。

世界第3位の経済大国である日本のリーダーが、ドメスティックで資本主義のいろはも知らないローカルな政治家では、日本が没落していくのは至極当然。政治が国民の未来を変えてくれる時代は、一体、いつになったら来るのだろう。私たち国民の期待を達成できない政治に対する失望の大きさを、政治家は肝に銘じて欲しい。