プロローグ
居酒屋「冒険者」で、真鍋はビールを飲みながらふと考えた。
「人はなぜゲームをするのだろう?」
「日常を離れ、ゲームという仮想現実の世界で自己実現をできるからか?」
「ただ、ひとたびゲームを初めると、そんな理屈は忘れ、没入してしまう。」
「なぜか?」
「ゲームには現実にはない自由があるからだ。」
敵を倒し強くなる。
空を飛べる。
魔法を使える。
伝説の勇者になれる。
世界を救うこともできる。
ストーリーを楽しむこともできる。
そして時には、自分が知らなかった世界を旅することもできる。
真鍋は子供の頃からゲームが好きだった。
シューティングもやった。
シミュレーションもやった。
RPGもやった。
数え切れないほどのゲームを遊んできた。
だが、ある日、一つのゲームが彼の人生を狂わせた。
いや、正確には、ゲームに対する価値観そのものを変えてしまった。
そのゲームの名は、「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」。
通称「ブレワイ」。
ゲームを始めた瞬間のことを、真鍋は今でも覚えている。
始まりの大地の祠で目覚めたリンクが洞窟を出る。
眩しい光。
そして目の前に広がる世界。
果てしない草原。
遠くに見える山脈。
古びた城。
夕日に染まる大地。
「好きな場所へ行っていいですよ。」
そう言われた気がした。
誰にも命令されない。
誰にも急かされない。
あの瞬間の感動は、今でも忘れられない。
特に音楽が素晴らしかった。
いや、正確には、音楽が「少ない」ことが素晴らしかったのかもしれない。
普通のゲームなら壮大なBGMが流れる。
しかしブレワイは違う。
風が吹く。
鳥が鳴く。
草が揺れる。
馬の蹄の音が響く。
静寂がある。
だからこそ。
ふとした瞬間に流れるピアノの旋律が胸に沁みる。
馬で草原を駆け抜ける時。
朝日が昇る時。
夕暮れが訪れる時。
祠を発見した時。
その控えめな音楽は、まるでハイラルそのものが歌っているようだった。
そして旅の途中で出会う人々。
馬宿で聞こえる陽気な演奏。
リト族の村に流れる美しい旋律。
ゾーラの里の神秘的な音色。
ゲルドの街の異国情緒あふれるリズム。
ゴロン族の豪快な音楽。
それぞれの土地に、それぞれの文化がある。
それぞれの音楽がある。
まるで本当に異なる民族が暮らしているかのように。
真鍋が特に好きだったのはパラセールでの滑空だった。
高い山を見つける。
とにかく登る。
崖でも構わない。
雨の日は滑り落ちる。
何度も落ちる。
それでも登る。
やっと頂上に着く。
眼下には広大なハイラル。
遠くには雪山、湖、草原、村、そしてハイラル城。
その絶景を眺めながら、
パラセールを開く。
風を受け、空へ飛び出す。
世界が足元に広がる。
どこへ行ってもいい。
好きな場所へ降りていい。
あの爽快感。
あの解放感。
真鍋は何百回も同じことを繰り返した。
目的地などなかった。
飛ぶこと自体が楽しかったのだ。
馬との旅も素晴らしかった。
馬を捕まえるのに苦労した。
しかも、最初は言うことを聞かない。
暴れる、逃げる、蹴られる。
だが少しずつ懐いてくる。
信頼関係が生まれる。
草原を駆け抜ける。
川を渡る。
森を抜ける。
夕日に向かって走る。
その時間が心地良かった。
ゲームを遊んでいるというより、旅をしている感覚だった。
そして気付く、ブレワイには不思議な魅力があるのだ。
「次は何をしろ」と言われない。
「ここへ行け」とも言われない。
ただ広大な世界がある。
だからプレイヤーは考える。
あの山の向こうには何があるだろう。
あの祠にはどうやって行けるのだろう。
あの光は何だろう。
その好奇心が冒険になる。
そして真鍋は思った。
これほど自由なゲームは、二度と現れないかもしれないと。
これがゲームの完成形なのだろう。
そう、本気で思っていた。
だが、彼はまだ知らなかった。
任天堂が、ブレワイを超えるかもしれない狂気のゲームを世に送り出すことを。
空へ、地下へ、新たな創造の世界へとプレイヤーを誘う。
その名は「ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム」。
後に真鍋が「時間を奪い取ったゲーム」と呼ぶことになる作品である。
そして、その時から始まるのだ。
人々から、ゼルダの呪いと呼ばれることになる奇妙な物語が。
それでは、物語を始めよう。
第一章 「最高の冒険を知ってしまった者」だけがかかる幸福なゼルダの呪い
「何か面白いゲームない?」
居酒屋「冒険者」で、真鍋はビールを飲みながらそう言った。
「また始まったよ」
女将の美咲が笑う。
「何がです?」
「真鍋さんの“ゲーム難民”」
カウンターの常連たちも苦笑した。
真鍋は深刻な顔でうなずいた。
「皆さん、笑い事じゃありません。私は病気なんです」
「病気?」
「はい。ゼルダ病です」
店内が静まり返った。
三年前。
真鍋は何気なく、任天堂のゲームを買った。
ゲームの名前は
The Legend of Zelda: Breath of the Wild。
通称、ブレワイ。
「まあ、有名だからやってみるか」
その程度だった。
ところが。
開始一時間後。
「何だこれ」
二時間後。
「何だこれ!」
十時間後。
「何なんだこれは!」
百時間後。
「こんなゲームが存在していいのか!」
崖が見えた、山が見えた。
全て登れた。
遠くに光る祠が見えた。
一体、幾つあるんだ。
どこにでも行けた。
たくさんの祠をクリアした。
リンクの能力がアップした。
谷があった。
飛び降りられた。
たけど高い崖から転落して死んだ。
周囲を高い崖に囲まれ、外界から孤立した「始まりの大地」の祠で目覚めたリンクが、パラセールを手に入れて、冒険の世界へ旅立つ。
敵に負けた。
楽しかった。
道に迷った。
楽しかった。
何をしても楽しかった。
「それで終わりじゃなかったんです」
真鍋は遠い目をした。
「まさか続編が出るとは」
それが
The Legend of Zelda: Tears of the Kingdom
ティアキンだった。
最初の空島に降り立った瞬間。
真鍋は嫌な予感がした。
「これはまずい」
そして予感は的中した。
空を飛び。
地下を探索し。
乗り物を作り。
戦車を作り。
爆撃機を作り。
意味不明な巨大ロボットまで作った。
気づけば三百時間。
四百時間。
五百時間。
人生の一部がハイラルになった。
問題はその後だった。
真鍋は他のゲームを始めた。
有名RPG。
開始三十分。
「ここ行けません」
「イベントが始まるまで進めません」
「この壁は登れません」
「このドアは開きません」
「この川は渡れません」
真鍋はコントローラーを置いた。
「自由が足りない」
別のゲーム。
超大作アクション。
主人公が崖に来た。
真鍋はジャンプした。
落下した。
ゲームオーバー。
「なぜパラセールがないんだ」
別のゲーム。
街を歩いていた。
真鍋は木を切ろうとした。
切れなかった。
「木も切れない世界とは」
別のゲーム。
家を見つけた。
入れない。
「なぜ入れない」
別のゲーム。
鍋があった。
料理できない。
「なぜ作れない」
別のゲーム。
敵の拠点を見つけた。
真鍋は火を放とうとした。
放てない。
「なぜ燃えない」
ついに真鍋は気づいた。
問題はゲームではなかった。
自分だった。
ブレワイとティアキンは、ゲームを遊んだのではない。
世界を遊んでいたのである。
ある日。
真鍋は押し入れの奥から古いゲーム機を発見した。
懐かしくなって電源を入れた。
二十年前のゲーム「信長の野望」だった。
グラフィックは粗い。
動きも単純だ。
自由度も低い。
だが。
不思議と楽しかった。
「どうしてだろう」
真鍋は首をかしげた。
その夜、居酒屋で女将に話した。
美咲は笑った。
「簡単じゃないですか」
「何がです?」
「真鍋さん、ずっとゼルダと比較してたんですよ」
「……」
「魚と肉とラーメンを比べても意味ないでしょう?」
「なるほど」
「それぞれ違う美味しさがあるんです」
真鍋はしばらく考えた。
そして言った。
「しかし女将」
「はい?」
「それでもティアキンは面白過ぎる」
「また始まった」
店内に笑いが起きた。
その時だった。
店のテレビからニュースが流れた。
『任天堂、次世代ゼルダ開発中との噂』
真鍋の箸が止まった。
顔色が変わった。
手が震えた。
「まずい」
「どうしたんです?」
「次が出たら」
「出たら?」
真鍋は天井を見上げた。
そして静かに言った。
「社会復帰できなくなるかもしれません」
店内は爆笑に包まれた。
しかし。
誰も知らなかった。
その時、真鍋のNintendo Switchのプレイ時間が、ブレワイ 680時間。
ティアキン 1,240時間。
になっていたことを。
そして真鍋自身もまた、
もう二度と普通のゲーム人生には戻れないことを。
ゼルダの呪い。
それは「最高の冒険を知ってしまった者」がかかる、幸福な呪いである。
第二章 ハイラル転生編
「社会復帰できなくなるかもしれない」
真鍋が、女将にそう言った瞬間だった。
テレビ画面が突然真っ白になった。
バチッ!店内の照明が消える。
「停電か?」
誰かが言った。
だが違った。
テレビ画面の中央に金色の三角形が浮かび上がった。
「え?」
真鍋は立ち上がった。
三角形はゆっくり回転する。
そして、強烈な光が店内を包み込んだ。
気が付くと。真鍋は草原に寝転がっていた。
青空、白い雲、遠くには雪山。
そして巨大な城。
「ハイラルだ」
一瞬で理解した。
なぜなら、千時間以上遊んでいた場所だからだ。
「うおおおおおお!」
真鍋は叫んだ。
普通の人間なら混乱する。
だが彼は違った、むしろ喜んでいた。
「本物だ!」
「ハイラルだ!」
「馬宿はどこだ!」
走り出した真鍋は五分後に後悔した。
ゼルダと違ってスタミナがない。
坂道で息切れした。
膝に手をついてゼーゼーしている。
そこへ旅人が来た。
「大丈夫ですか?」
「リンクはこんな坂を走っていたのか……」
「リンク?」
「いや、何でもない」
夜になった。真鍋は野宿を始めた。
ゲームでは簡単だった。
薪を置く、火をつける、料理する、終わり。
しかし、現実は違った。
薪に火がつかない。
火がついても消える。
肉が焦げる。
リンゴが燃える。
鍋がひっくり返る。
三時間後、真鍋は真っ黒になっていた。
「リンク凄すぎるだろ……」
真鍋はハイラルで暮らし始めた。
馬宿に泊まり、討伐隊を手伝い、コログを探した。
「ヤハハ!」本物のコログを見た時は感動した。
しかし、五十匹目を超えた辺りで感動は消えた。
「お前ら何で、そんな所に隠れてるんだ」
さらに、彼はウルトラハンドを持つリンクを目撃した。
空飛ぶ乗り物、戦車、巨大ロボット。
ゲームで見たままだった。
「すげえ……」
真鍋は感動した。
だが、その直後、リンクが操縦ミスをして崖から落下した。
ドガーン!大爆発。
「やっぱりやるんだ」
真鍋は安心した。
ある日、リンク本人と出会った。
伝説の勇者である。
真鍋は興奮した。
「サインください!」
リンクは首を傾げた。
「……」
「そうか。喋らないんだった」
やがて、真鍋はある事実に気付く。
ハイラルは楽しい。
だが。危険だった。
夜になると魔物が現れる。
雨が降ると崖が滑る。
雷の日は金属装備で死ぬ。
ティアキンにガーディアンはいないが、ライネルはいる。
ライネルは本当に怖い。
本物はゲームの比ではない。
ある夜、真鍋はライネルに追われていた。
全力疾走、人生最大の全力疾走。
「リンクぅぅぅぅぅ!」
涙目で叫ぶ。
その時、彼は思った。
「俺はゲームだから笑っていたんだ」
「本当に追われると全然楽しくない」
そして一年後、再び金色の光が現れた。
トライフォースだった。
「帰るか?」
どこからともなく声が聞こえた。
真鍋は考えた。
現実世界、仕事、税金、通勤電車、満員電車、会議、資料作り。
そして、ハイラルは、冒険、自由、青空、空島、馬、祠、料理、コログ、ライネル。
真鍋は即答した。
「帰ります」
次の瞬間、そこは居酒屋「冒険者」。
真鍋は元の席に座っていた。
停電から一秒も経っていない。
「どうしたんです?」
女将が言った。
真鍋は震える声で答えた。
「女将」
「はい?」
「ライネルは恐ろしい」
「何言ってるんですか?」
その日から真鍋は少しだけ変わった。
他のゲームも遊ぶようになった。
どんなゲームにも良さがある。
そう思えるようになった。
深夜、誰もいない部屋で彼はSwitchを起動する。
そして静かにつぶやく。
「ライネルはいないよな?」
画面に映るハイラルの大地。
その瞬間、真鍋は再び思うのだった。
「やっぱり面白過ぎる」
ゼルダの呪い。
それは、ハイラルから帰ってきても、決して解けることのない呪いなのである。
To be continued…
