ロシアのウクライナ侵攻に対する日本人のリアクションを見ていると、結局、太平洋戦争前の日本人と全く変わっていないということが分かった。
これが日本人の日本人たる由縁と言うことなら、当たり前なのかもしれない。
日本人は昔から戦争が大好きだった。
日本と戦ったアメリカは、そんな日本人の深層心理を見抜いていたから、日本国憲法に第9条「戦争放棄」を織り込んだのだろう。
太平洋戦争後の日本を「進駐軍のトップ」として支配したダグラス・マッカーサーは、アメリカ議会で「日本人は12歳の少年のようだ」と言ったが、そのとおりなのだろう。
憲法第9条のおかげで、放って置くと何をするか分からない日本人を抑え込むことができたから、これまでは平和な日本だったのだ。
ところが、ロシアのウクライナ侵攻を見て、戦争大好きな人間たちが騒ぎ出した。昔と同じだ。
彼ら彼女らは「戦争をしないために日本が軍事大国になる」ということでは我慢できないようだ。
とにかく「周辺の気に食わない国にケンカを売りたいから軍事大国になりたい」と言う本末転倒な人たちなのだろう。
戦争はゲームではない。
耐えがたい苦痛と憎悪の連鎖を生み出すだけの、不毛の世界を創り出す、まさに地獄だ。
そもそも、歴史は生き残った者の歴史でしかない。
運良く生き残った者にとっては、悲惨な戦争だってゲームに過ぎない。
過酷なサバイバルゲームで生き残ったのだから誇らしいくらいだろう。
しかし、死者にとっては無の世界だ。
どんなに崇高な理想を持っていようとも、どんなに優れた人柄や能力を持っていようとも、どんなに人並外れた容姿や身体能力を持っていようとも、死者の生き様を正しく伝える歴史なんてどこにも無い。
戦争で死んだ者は、どんな理由をつけたところで、全て無駄死にだ。
運良く生き残った者たちの酒の肴くらいだろう。
運良く生き残った者たちの、戦場での波瀾万丈の思い出を盛り上げるエキストラに過ぎない。
自由と民主主義のために戦ったところで、死んでしまえばお終いだ。
自由と民主主義のために戦って、命を失ったり、手足を失ったり、失明してしまったら、自由も民主主義も何も無い。代償が余りに大き過ぎるのだ。
自由と民主主義のために家族を失ったり、家や財産を失った国民に「自由と民主主義が守られたのだから満足だろう」と言えるのは、初めから生き残れると分かっていて戦争を始めた支配層だけだろう。
彼ら彼女らだけが、邪魔者が居なくなった世界で自由と民主主義を謳歌できるからだ。
被支配層の庶民にとっては、頼みもしない戦争を始めた厄介な支配層を駆逐するために命をかける方が、まだマシかもしれない。
少し過激になってしまったが、これが80年前の太平洋戦争で、自分の命以外の多くのものを失ってしまった私の父親の叫びだったことを付け加えておきたい。