日本の大学教育を俯瞰すると、まさに「教養重視」。教養を身につけるのは良いことだ。しかし、現実の世界はアカデミズムとは無縁。ロシアや中国ですら、経済システムは概ね資本主義。資本主義社会は金を儲けた者が勝者。アカデミズムでは学者にでもなれなければ食えないのだ。
資本主義社会なのだから、大学は、学生に生きて行くために必要な金儲けの方法を効率的に教え込まなければならないはずなのに、大学は教養重視。教養が無意味とは言わないが、高尚な趣味の世界のようなもの。教養だけで生きていけるほど資本主義社会は甘くない。大学は教養と決別して、実社会で役立つことをもっと教えるべきだ。教養は高校までの教育に任せておけばよい。
大学受験に向けて教養を身につけるため、小中高と受験勉強に明け暮れ、晴れて大学合格。本来ならば、そこでギアチェンジして、教養と決別し、資本主義社会で生きていくための実践的な力を身につけさせるべきだ。
確かに昔は、教養重視の大学を卒業して「学士様」となれば、実社会である程度、出世できたし、金持ちにもなれた。しかし、そんな牧歌的な時代はとっくに終わっている。そろそろ大学は、教養と金儲けは別物だという現実を認めるべきだ。
大学教育は、「職業人となるための教育」でよいということをなぜ認めないのか。学者の方々が、実学を教養より下に見ているからではないか。そもそも、大学では、なぜ学者に学生を教えさせているのだろう。大学の教員が学者である必要などないのに。大学の教員だって、教える能力で選抜すべきだ。大学は、高い学費を払う学生に、実社会で通用する力を効率的に身につけさせるサービス業だと考えれば当然のことだ。
これまでの大学では、学士課程にもかかわらず、あたかも学者でも育てるかのような教育を施してきた。学者は大学院課程で育てればよい。学士課程は実学重視でよい。学生もそれをわかっているから、役に立たないアカデミズムに背を向けて、一流企業に入れるよう自分なりのスタイルで就活に向けて頑張っている。しかも、そうした学生の売りと言えば、頭よりも人間関係や人柄、スポーツや文化活動だったりする。一方、採用側も、学生の成績より大学名で採用するという時代錯誤が未だにまかり通っている。ただ、これはやむを得ないとも言える。学生を「成績」で選んだところで、その成績の中味が、実務では役に立たない「教養」に過ぎないのだから。採用側としても、新卒なんて即戦力にならないと重々承知の上だ。
昔はそれでよかったかも知れない。素材としての新卒を、採用後、時間をかけてじっくり育てる余裕があったのだから。そう、世界の企業価値ランキングの上位に日本企業がひしめいていた古き良き時代なら。しかし、今は違う。世界の企業価値ランキングの上位から日本企業が消えて久しい。企業が人を育てる「日本的資本主義」の時代は終わった。今は、人が企業を興す時代だ。20世紀には無名だった会社や、存在すらしなかった会社がたくさんある。遙か昔に、誰かが創ったビジネスモデルに依拠した大企業なんて生き残れない時代なのだ。近い将来、企業も、そして大学も、私たちの生存にとってあまり役に立たなくなる時代が来る。大学も変わらなければ生き残れない時代だ。だからこそ大学は、アカデミズムなど大学院に任せて、実学に力を入れなければならない。そうならなければ、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような時代を変革する創業者のインキュベーターたり得ないだろう。