自由主義社会で自由を謳歌できるのは金持ちだけ 無制約な資本主義を許している「自由競争万能主義」は見直されるべきだ 今日も貧しい庶民は ブラックな資本主義社会で 生き残りを懸けて戦っている

アメリカや西側諸国は、「自由と民主主義」のためにロシアと戦うウクライナを賞賛し、支援している。

しかし、「ウクライナ国民の命」を懸けてでも守るべき、アメリカや西側諸国の推す「自由と民主主義」とは、一体何なのだろう。

アメリカや西側諸国では、間違いなく、「民主主義」は守られている。

たとえ家柄がよくても、金持ちでも、高学歴でも、博学でも、たくさん税金を納めていても、選挙権は平等に「一人一票」。

これこそが「民主主義の基本」だ。

しかも、この民主主義の基本は、公正な選挙制度によって確実に担保されている。

ロシアや中国の形だけの民主主義とは異なる「真の民主主義」だ。

それでは「自由主義」の方は、どうだろう。

「個人の自由」を保障することにより「自由な社会を創造する」政治的イデオロギー

この自由主義は、「自由競争」の勝者に富を独占させることを「正義」とする「資本主義」と相俟って、共産主義社会主義を駆逐した。

しかし、自由主義は、経済面では「個人の自由」より「自由競争」を重視しているようだ。

国富を増大させる「自由競争」のためなら「個人の自由」なんて、どうでもよいのかもしれない。

会社で働いた経験がある日本人なら、誰でも感じていることだろう。資本主義社会の日本では、会社の批判などをしたら、干されるか、解雇される。

だから、会社の目が届く範囲内では、「本音は御法度」。

まあ、命を取られる訳ではないから我慢するだけ。人生100年時代の僅か40年余りのことだ。

今、アメリカや西側諸国では、一人の大富豪が、数百億円、あるいは数千億円、いや数十兆円の富を持っている。

選挙権として国民一人につき一票しか与えられていないのに、富については、国民一人がいくらでも所有できる。

これが自由主義

日本だって、この国の全ての富を一人の大富豪が所有しても、お咎め無し。それどころか「アッパレ」と称賛されるだろう。

いくら何でも、おかしな話だ。大富豪が、所有できる富に上限はない。

これが自由主義

仮に、上限を設けようなどと言えば、必ず反対される。不思議な話だ。

しかも、反対する人たち全てが大富豪というわけではない。必ずしも豊かでない人までもが反対する。

「能力のある者が競争に勝ち、莫大な富を得る。それこそが資本主義の醍醐味だ」と言うことかもしれない。

しかし、いかに能力があろうと、そして、どんなに死にもの狂いで努力しても、数兆円の富を手にできるのは、ごくわずか。

ちまたでは、年収一千万円のサラリーマンが理想と言われている。それどころか、日本人の平均年収は430万円。

かたや大富豪、特にアメリカの大富豪は桁違い。

異常とも言える「格差社会」。これが「自由主義社会」と言えるのだろうか。

今や、共産主義社会主義という対立軸を失い、無制約な資本主義となった「強欲資本主義」の世界には、誰も想像したことがなかったような大富豪が出現している。

しかも大富豪は、「所有権の自由」、「自由競争」の名の下に、さらに富を積み上げている。

自由主義社会で、自由を謳歌できるのは、競争の勝組の大富豪だけ。負組の貧しい庶民は、ブラックな資本主義社会の中で生き残るために、生存限界で、言いたいことも言えずに働いている。

これ以上、大富豪だけに富が集中し、持たざる人たちとの間の「格差」が広がれば、その行き着く先は「自由主義への不信」。

そうならないためにも、大富豪が所有する富のうち「どう考えても使い切れない富」を、国家の管理下に取り戻さなければ、君主や貴族など一部の特権階級だけが、富と権力を独占していた大昔に逆戻りだ。

ロシア人の大富豪の資産を凍結している自由主義諸国なら、それくらい簡単なことだろう。

決して自由主義や資本主義を否定しているわけではない。しかし、無制約な「資本主義」を許している「自由主義」は、見直されるべきだろう。