古き悪しき時代

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昔、大企業には「専門家になったらもうお仕舞い、出世できなくなる」という訳の分からない都市伝説のような呪いがあった。それで、多くのサラリーマンは、会社に入った途端、せっかくの素晴らしい学歴や才能を捨て、学ぶことも止めて、上司や同僚と酒を飲んでは麻雀、ゴルフに明け暮れ、社内政治に浮き身をやつし、会社馬鹿になっていった。

それでも、情報革命によりコンピュータやインターネットが隅々にまで導入される前は、終身雇用制度で守られた会社馬鹿たちは、何の支障もなく生きていくことができた。そればかりか、そんな連中からしか経営者にはのし上がれなかった。

会社に入ってから、なまじ勉強などしていると、奇異の目で見られるばかりか村八分。そんな具合だから、優秀な学生をいくらたくさん採用しても、しばらくすると会社馬鹿ばかり。至極当然である。

昔、一生懸命、会社馬鹿になって人事部に異動した同僚が「海外留学するより人事部の方が出世できるからいいぞ」と言っていた。彼は社内政治家の道を選んだわけだ。順調に人事人脈を利用して出世できたのも、つかの間。会社が合併し、私たちの会社の人事人脈は崩壊して、結局、同僚は早期退職した。

大企業は潰れない(Too big to fail)などと言っていた時代はもう終わった。熾烈な国際競争の中では、売上高が大きいとか、従業員がたくさんいるとか、資産が大きいとかいった「大企業」という概念は消え失せた。どんな大企業でも、新しいビジネスモデルを創造できなければ容赦なく淘汰される。これは個人にも当てはまる、日々能力を進化させなければ容赦なく切り捨てられるのだ。一寸先は闇の時代。

「サラリーマンは気楽な稼業」と言われていた昔、人事部には、全社員の名前や経歴、家族構成から弱みまで知っている生き字引、組織や人事、給与制度を立ち上げたと豪語する猛者がいた。そんなビジネスの現場では何の役にも立たない人間が、確かに出世していた。今思うと古き悪しき時代だった。

137億年の宇宙が創りだした最高傑作

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ビッグバンから137億年。この宇宙の気の遠くなるような長い歴史の中で、偶然のように誕生し、そして、今を生きる76億人。かけがえのない仲間だ。殺し合いばかりの歴史の中で、ようやく勝ち取った、とても脆い平穏。今までに何億人の人間が殺されてきたのだろうか。

私たちは、いつになったらわかるのだろう。平凡であっても毎日を豊かな気持ちで過ごせる幸せを。誰も活躍などしなくてもいい。ましてや、誰も権力など握らなくてもいい。心の平穏と毎日を幸せに生きることへの感謝。それだけでいい。

76億人の私たちにとって必要な社会とは。何度でもチャレンジできる社会。お互いに助け合う優しい心の社会。どのような出自、学歴でも、努力する人が必ず報われる公平な社会。人の尊厳、プライドを決して損なわない社会。人の心、感性、感情を傷つけない社会。人の夢を見守り応援する社会。人の痛みを理解し共感できる社会。生きることに日々喜びを感じることができる社会。

今こそ、そのような社会にしたい。民主主義の現在、私たちには、その力があるのだから。その力を活かさなければ、私たちが生きている意義がない。

優しさのどこが悪い。公平、平等のどこが悪い。競争なんて真っ平。それでいい。今を生きる私たちが本当に幸せに生きることができない社会なんていらない。明るい未来は必ず来る。それを信じて精一杯に生きよう。

だって、私たちは137億年の宇宙が創りだした最高傑作なのだから。

 

ネットとコスモポリタン

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現代は素晴らしい時代だ。たった一人引き籠もった部屋の片隅でパソコンに向かって、アイフォン片手に雑踏や青空の下で、世界と繋がっている。SNSを使って世界中の人々、友人、かけがえのない貴方と繋がっている。同じ時代を生きる私たちは、果てしない空間を越えて、あたかも隣にいるかのように会話する。自分の心に浮かんだ、とっておきの話や、悶々と抱えてきた悩みを語り合うことができる。誰かに知って欲しい経験や知識を世界に発信することができる。なんと素晴らしいことだろう。

キリストでも、ナポレオンでも、ヒトラーだって、こんな素晴らしい時代に生きていたら。違う人生を歩んでいたかもしれない。ビッグバンから137億年。私たちは、ようやくここまで来た。大切にしなければならない現代。

"Cosmopolitan" 国家的偏見にとらわれない世界主義。今こそ、コスモポリタンという言葉の意味を理解できる時代だ。この広い世界で、国家や組織を超越したコスモポリタン的な生き方。コスモポリタンという言葉を抽象的な概念ではなく、日々の暮らしの中で実感し、実践できる時代を生きている。この幸せを噛みしめよう。

しかし、気をつけなければならないこともある。ネットの世界では、誰でも世界的視野や行動力を待った超人になれることだ。匿名のネットの世界ならなおさら。でも、理性や愛情を忘れてはいけない。醜い現実とは違う、明るく愛に満ちたネットの世界を創造していくのがコスモポリタンだからだ。

ネットを通したコスモポリタン的生き方。しかし、まだそれは序の口。フィクションの世界に過ぎない。ネットから覗く現実世界は、不平等で格差に満ちている。ただ、それを気付かせてくれるのもネットなのだ。

人生100年時代

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平均寿命が延び「人生100年時代」などと言われているが、自分の裸の姿を見れば、現実に引き戻されるはずだ。これは老人だけの話ではない。若者だって体を鍛えなければ無残な姿になってしまう。元気なままで人生100年を謳歌できる人間など、本当は一人もいないのではないかとさえ思う。

高齢な政治家や企業経営者も、背広を着て髪の毛を染めていれば、何とか年齢による見た目の衰えをごまかせるだろう。しかし、裸の姿は残酷だ。だぶだぶになった二の腕や太もも、たるんで変色した臀部や股間、醜く膨れあがった腹。人間というものは加齢により、若い頃とは別人のようになってしまうものだ。

犬や猫、牛や馬などは、加齢で外見が大きく変化するなどということは、あまりないように思える。体毛のせいかもしれないが、おそらく、裸の外見に変化が生じる前に死んでしまうからだろう。しかし、人間は、裸の外見に大きな変化が生じても、まだまだ生き続ける。医学の進歩のおかげだ。そうは言っても、もし世の中の人々が、老いも若きも裸で生活していたとしたら、老人の姿を見て「人生100年時代」などと言い出す人は一人もいないだろう。

もし、この国の政治家や企業経営者が、背広姿ではなく裸だったら、この人達に国家や企業を任せておくことなどできないと誰もが思うはずだ。

恐ろしい終身雇用の時代

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昭和の終わりのバブルの時代は、積極的に資産運用をしなくても、郵便局や銀行の定期預金、積立式の生命保険に預けておけば、元本保証で年6パーセント以上の利回りが得られた。特別な金融知識を持たない普通のサラリーマンでも、現役時代にトータルで数千万円の金融収益をあげられた。そのうえ、今よりはるかに多い退職金を、現役時代の様にリスク無しで、高利回りで運用できた。当時は、不動産価格も右肩上がりだったので、ローンで買ったマイホームに何年か住んで売却すれば、ローンの残額を返済しても、お釣りがくるくらいの売却益を手にできた。古き良き時代である。

しかし現在はというと、経済が停滞し、ゼロ金利で、不動産価格も下がり、資産運用など夢のまた夢。サラリーマンの給料は、上がらないうえに、非正規雇用が拡大し、正社員の終身雇用は崩壊寸前。政府に後押しされ、企業側も定年延長を進めているが、企業には「資本の論理」がある。社員の定年を65歳そして70歳と延長しても、企業は、社員に払う労務費の総額(総労務費)を決して増やさない。社員の側から見れば、定年が延長されても、働く期間が長くなるだけで、退職までの報酬の総額は変わらないということ。しかも、年金は減り、税金や社会保険料などの負担だけが増え続ける。そのうちに、終身雇用がなくなれば、退職金もなくなるだろう。このままでは、身ぐるみ剥がされて丸裸である。

とにかく、これからのサラリーマンは日銭を稼ぐだけで精一杯。ライフプランを描く余裕もなくなるだろう。「毎日が日曜日」とか、「退屈でぼける」などと贅沢を言っていられた時代も今は昔。生きていくために死ぬまで働かなければならない、本当に恐ろしい意味での「終身雇用」の時代の到来だ。

 

 

日本の生産性が低いのは

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日本の生産性が低いのは、大企業が競い合って、新卒一括採用で、たくさんの優秀な学生を囲い込むためではないか。その大企業も、なぜか囲い込んだ学生が社員になった途端に魅力を感じ無くなるようで、入社後はOJTでほったらかし。だいたい、会社の仕事など、優秀でなくても務まる雑務の方が多いから、それでも問題はないのだろう。しかし、そうだとしたら、毎年、何百人もの一流大学の卒業生を、各社が競って採用する必要などないはず。それなのに、いつまでも指定校制などと称して社員を特定の大学の卒業生で埋め尽くそうとする。全くナンセンスな話である。

所詮、何百人もの同期入社の中で、幹部になれるのは、ほんの一握り、あとは使い捨てなのに、優秀な学生をかき集めようとする愚かな人事部。一流大学の学生も、自分と同じような学生ばかりが集まる大企業に選ばれたことへの優越感だけで、将来の展望も無いまま入社し、長く無益な競争を強いられる。

平成の30年余り、変化に取り残された多くの大企業が、たくさんの一流大学卒の社員もろとも轟沈したことを忘れてはならない。新卒で入った大企業が倒産したとき、社員を待っているのは地獄。仮に上手く転職できたとしても、転職先が旧態依然とした大企業の場合、生え抜きでない社員は差別され、最後には使い捨てられる。轟沈しないまでも、業績が悪化した大企業のリストラで弾き飛ばされた社員の運命も同じ。本人としては、何のために子供の頃から努力を重ねてきたのかわからない末路になる。入る会社を間違えたと言ってしまえば、それまでだが。あまりに理不尽である。

人材を一極集中させた挙げ句、競争に敗れ、人材もろとも轟沈する大企業。資本主義の宿命とは言え、経済的にみれば資源の無駄遣いである。

昭和の高度成長期、大企業が不沈戦艦だった時代には、優秀な人材の一極集中は、有効な政策であり、効率的な経営戦略だった。日本の生産性の向上に大きく貢献したことは間違いない。しかし現在では、大企業への人材の一極集中は、マイナスなだけである。人材を広く分散させ、日本を全体的に底上げすることが必要だ。

 

競争社会

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日本人は大学受験で騒ぎ過ぎる。確かに、大学受験は人生での大きな試練である。しかし、人生における本当の試練は、大学を卒業して実社会に進んでから始まる。それはお金を稼ぐための競争である。ここで「お金を稼ぐ」と言う理由は、資本主義社会では、お金がないと生きていくことができないからである。

資本主義社会では、誰でも自己責任の下で競争に参加できる。競争だから、勝者もいれば敗者もいる。誰にでも成功のチャンスはあるが、勝者が敗者に比べて圧倒的に少ないところに資本主義的競争の醍醐味がある。そして、このあたりが日本人やアメリカ人が資本主義的競争を好む理由のようである。

資本主義は、競争の勝者つまり成功者が高い地位や富を得ることを是とする経済システムである。競争に勝ち残るためには、受験勉強どころではない、長く気の遠くなるような日々を生き抜かなければならない。そこには、受験時代のようにペーパー試験で一発逆転などという幸運はない。毎日が模範解答のない試験のような日々。だから、模範解答に慣れた受験エリートでは、なかなか勝ち残ることができない。そこで問われるのは、表向きには優秀さかもしれないが、人間力や忍耐力に加えて狡猾さや非情で残酷な割り切りも必要。ひたすら勉強に打ち込んできた受験エリートにとって、医師になるか国家公務員試験や司法試験に合格してキャリアの道を進む方が能力を発揮できるかもしれない。

受験エリートが一流大学を出て、一流企業に就職するのは、実はあまりいい選択とは思えない。どのような大企業だろうと、所詮はノンキャリア採用。新入社員は横一線で、毎日サバイバル競争を戦っていくことになる。同期入社といっても、同じように昇進できる期間はごくわずか。すぐに昇進に大きな差が生じてくる。そうした競争も40代になる頃には、ほぼ勝敗が決する。一握りの勝者と大多数の敗者。しかも、その勝者は必ずしも学力的エリートではなく、社内政治に長けた気遣いと人柄が取り柄のような、エリートを自認する者とは相容れない凡俗であることも多い。

ただし、そうした勝者も、勝ち残るために、ほとんどの時間を会社に捧げ、理不尽な上司に取り入り、同僚や部下に気を遣い、心と体を消耗させた挙げ句、自らの幸福や健康を犠牲にしてきたことを後悔することになる。

そうは言っても、これまでの世代は、まだ幸せだった。受験戦争を勝ち抜き学歴を身につけて大企業に入り、与えられた仕事に全てを捧げれば、その中で、やりがいや生きがいを見出せた。たとえ競争に勝ち残れなくとも、年功序列で安定した報酬とそれなりのポジションも保証された。

しかし、これからは大企業に入って、労働を提供し対価を得るだけの、今までのような古典的サラリーマンでは、組織の歯車かAIの奴隷になる他に選択の余地はなくなるだろう。