人に優しい資本主義なんて無いから自由と民主主義が大事なのだ

資本主義は、競争の勝者、つまり成功者が、高い地位や富を得ることを、是とする経済システム。人間の持つ欲望を、生産性の向上や、経済成長の原動力とする、効率的なシステム。

その資本主義が、社会主義共産主義を駆逐したという事実が、資本主義が、今のところ、最高の経済システムだということを証明している。

実際、共産主義国家の中国すら、市場経済を取り入れたおかげで、経済が大躍進した。この事実からも、資本主義が、ベストな経済システムということになる。

資本主義社会では、自己責任の下で、自由に競争に参加できる。実際には、世襲の富裕層でもなければ、競争に参加しない限り、生きていけないから、選択肢がないと言うのが正しいのだが。

競争だから、勝者もいれば、敗者もいる。ただ、「誰にでも勝者となるチャンスがある」と言うのが、資本主義の売り。アメリカン・ドリームの世界観だ。

しかし、現実は厳しい、勝者はごく僅か。アメリカのトップクラスの富裕層数人の所有する富が、世界の76億人の下から半分の人々の所有する富に匹敵するという現実。資本主義的競争が、もたらすのは、恐ろしい「格差社会」。

国民には、選挙権として、平等に「一人一票」が与えられる。金持ちで、たくさんの税金を納めていても「一人一票」。これが民主主義。

ところが、富は別。一人の人間が、数十億、あるいは数百億円、いや、それ以上の富を持つことができる。

選挙権は、一人につき一票なのに、所有できる富は、平等ではない。それどころか、無制限なのだ。日本の全ての富を、一人の人間が、所有することも可能。これが資本主義。

そんなの、いくら何でも、おかしいだろうと思う。ところが、この世の中には、楽天家が、多いようだ。

「一流の芸能人やスポーツ選手が、数十億円の富を手にすることの、どこが悪い」、「そのくらい稼げなくては、人生に夢がない」、「能力のある者が、莫大な富を得る、それこそが資本主義の醍醐味だ」、「貧乏人は、努力をしないから、自業自得だ」などなど。

プロスポーツを見ていて思う。「貧乏な観客が、金持ちのスター選手を、一生懸命、応援している」摩訶不思議。

話を元に戻そう。

今や、共産主義社会主義という対立軸を失い、無制約となった資本主義は、「強欲資本主義」へと進化した。いままで、誰も想像したことがないような富裕層が出現し、「所有権の不可侵」と「自由競争」という「資本主義の大義」の下、さらに富を積み上げている。

資本主義の勝者なのだから、当然という考え方もあるだろう。

しかし、これ以上、勝者にばかり富が集中し、敗者との間の「格差」が拡大すれば、行き着く先は、力による富の平準化。そこにあるのは、闘争と破壊の無秩序。

そんな「資本主義」の暴走を、「一人一票の平等」なんていう牧歌的な「民主主義」では、到底、止められない。

そもそも、富裕層の持つ富は、一人の力で、築いたものではない。たくさんの人たちの血と汗と涙の結晶である。「平和で安全で便利な社会」というインフラのおかげだ。

それを、タダ同然で利用できたからこそ、富を築けたのだ。それなのに、インフラを支えている人たちは、富裕層とは比べようもなく貧しい。いや、それどころか、生存限界ギリギリにいる。

いつまでも、こんな「石が流れて、木の葉が沈む」ような、富裕層が跋扈する世界を、放っておいてはいけない。

今こそ政治が、法の支配により、富の適正な再配分を行なわなければならない。

決して資本主義を否定しているわけではない。ただ、「強欲資本主義」は、否定されるべきだと言っているのだ。

資本主義社会では、金がないと、生きていくことができない。コロナ禍の中で、誰もが痛感したとおり、「金と命を天秤に掛ける」のが資本主義。

それではいけない。

政治は、競争の敗者に対して、もっと手をさしのべるべきだ。

この国が、世界との資本主義的競争を勝ち抜くためにも、一人でも多くの敗者を復活させ、再び競争に送り込まなければならないのだから。

「再び競争に送り込む」、残酷な言い方かもしれないが、人に優しい資本主義なんて無いから政治が必要なのだ。