失敗するたびに夢を持てばよい

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日本では、志望の大学に入れなかった悔しさを抱えている人はいても、大学受験で、青春を犠牲にしたと思う人は、あまりいないだろう。大学は、努力に見合う何かを与えてくれるところだからだ。首相となる菅さんを見ていると、強くそう思う。法政大学で学んだことで、新しい道を切り開くための何かを掴んだのではないか。

そもそも、「学歴」なんて、生きていくことと何も関係ないもの。無用とまでは言わないが、それだけで人生を渡っていけるほど、社会は甘くない。人生で、何よりも大切なのは、「学ぼうという情熱」と「何事にも真摯に取り組む姿勢」。これが豊かな人生の原動力だ。そんな生き方に対して、人が何を言おうと、放っておけばよい。

最近の、大学受験を見ていると、虚しさを感じる。「良い大学に入ると、良い人生を送れる」という漠然としたステレオタイプ的な価値観。「そんな価値観、ふざけるな」と言いたい。一発勝負のペーパー試験で、合否が決まる、大学入試なんて、どうでもよい。そこから先が重要なのだ。さらに言うと、大学なんて行かなくても、何も問題はない。学歴より、決して諦めない姿勢こそが、一番大事なのだから。そうだ、決して諦めてはいけない。「失敗するたびに、失敗を糧に、夢を持てばよい」。失敗しない人生に、本当の成功など来ないのだから。

最後に、誤解の無いように付言する。本当は「人生には、成功も、失敗もない」ということを。オリンピックではないが、「生を受けて、人生を生きることが尊い」のだ。全ての人が、こんな気持ちを持ってくれれば、この世界は、今より少し、生きやすくなるだろう。

 

「半沢直樹」にとって頭取や社長は敵か味方か

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半沢直樹の活躍を毎週ワクワクしながら見ている。しかし、ドラマ「半沢直樹」に、多少の違和感を覚える。そう、銀行の頭取や出向先の証券会社の社長が、半沢直樹にとって、「敵か味方か」、あまり明確に描かれていないからだ。

半沢直樹が、会社人生をかけて社内の悪人と戦うのはいいが。そもそも、そんな悪人を野放しにするばかりか、出世コースに乗せている会社のガバナンスやコンプライアンスにこそ問題があるだろう。そんな諸々の執行責任者である頭取や社長が、あまりに無責任過ぎるのだ。社内の違法行為や不正行為を探知もできずに放置してきたばかりか、その事実を知っても、何もしない。挙げ句の果てに、肝心の取締役会では、「取締役同士の自己保身のための忖度合戦」を黙って聞き置くか、せいぜい、何を言っているか要領を得ない「お言葉」を発してジエンド。「頭取、あなたは神か」とでもいいたくなる描き方。なぜ、経営陣でもない一介のサラリーマンが、会社や顧客のために必死に頑張っているのに、頭取や子会社の社長は何もしないのか、全く理解不能だ。

日本のビジネス・ドラマに登場するトップは、なぜか、いつも訳の分からないご託宣ばかり。言葉や行動で、部下を動かすトップは、いないのか。「がっかりするかもしれないが」、いないのだ。

会社のトップというのは、高尚な経営問題より、社内外での自分の評判や、くだらない社内ゴシップや、ゴルフ、麻雀の類いが大好き。しかも、大会社のトップには、高齢者が多く、体力的にも、仕事など到底無理な人たちばかり。ドラマ「半沢直樹」の頭取や社長も、昔は凄かったのかもしれないが、今は黄昏れて、「敵か味方か」なんて旗幟鮮明な立ち位置などとれなくなっているのだろう。

半沢直樹」を見ている若い人たちに言いたい。会社で出世するのは、半沢直樹的な人間ではないということだ。残念な話だが本当だ。半沢直樹的人間は、さっさと会社を辞めて、独立した方が幸せかもしれない。

「菅首相」政治が国民の未来を変えてくれる時代はいつになったら来るのでしょう

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私たちは、自分の過去を変えることはできない。しかし、未来を変えることはできる。同様に、私たちは、日本の過去を変えることはできない。しかし、未来を変えることはできる。そう、「民主制」という政治により、私たちは、日本の未来を変えることができる。だから、私たちは政治に興味を持ち、期待し、参加するのだ。

これまで歴史の中で、神制、専制、貴族制、君主制独裁制など様々な政治形態が、生まれては消えてきた。民主制が当たり前の、現代の日本人から見れば、どれも異常な政治形態だろう。そうは言うものの、「国民が主権を持ち、行使する民主制」が世界の主流となってから、まだ100年も経っていない。しかも、この民主制、なかなか厄介な政治形態で、いまだに試行錯誤の真っただ中。

国家は国民の集合体なのだから、本来ならば、私たち国民一人一人に、国家の未来を変える義務と権利がある。しかし、そうはいかない。1億人を超える国民の総意に従って、国家を運営するのは、すこぶる難しい。そこで、国民が直接、国政に参加する直接民主主義ではなく、国民が代表を選出し、その代表が意思決定を行う「代表民主制」がとられている。ただ、この代表民主制が曲者。というのも、「代表」は「神」ではなく、「弱く愚かで罪深き人間」だからだ。とにかく、代表民主制という政治形態を、機能させるためには、より良き「代表」を選ぶこと、これに尽きる。

今、まさに、代表中の代表である「内閣総理大臣」を選ぶ時を迎えている。ところが、こんな重大イベントにもかかわらず、私たち国民は、蚊帳の外。国家の最高指導者を、直接選ぶことができないなんて、民主制否定のとんでもない事態だ。それなのに、テレビでは、政治評論家が、そんな我が国民主制の欠陥を棚に上げて、芸能レポーターのように、「ABが嫌いだから、Bが総理になることはない」だの、「前総理が影響力を持つのでC」だの、「政治の世界は、所詮は、好き嫌い」などと、あきれるばかりの低次元な論評。

そもそも、日本では、選挙に勝利した「多数党」が立法府である議会を牛耳り、「多数党」が行政府である内閣を構成し、「多数党」から選ばれた内閣総理大臣が、国家を統率、指導、統制する。ところがその実、「多数党」と言っても、小選挙区制の現在、国民の過半数の意思すら反映していない。

私たち国民は、日本国のリーダである内閣総理大臣を直接選ぶことができない。何年か前の、ろくな候補者もいなかった選挙で選ばれた、権力欲と利権にまみれたローカル議員の中から、時代錯誤で不透明な談合で、内閣総理大臣が選ばれるのを、指をくわえて見ているだけ。「議員内閣制」をとる日本では、権力欲と利権にまみれたローカル議員の中からし内閣総理大臣は選ばれない。そのせいで、「政治を家業とする世襲政治家」が幅を利かす。21世紀の現代、なぜ、こんなアナクロニズムな政治がまかり通っているのか、理解不能である。

世界第3位の経済大国である日本のリーダーが、ドメスティックで資本主義のいろはも知らないローカルな政治家では、日本が没落していくのは至極当然。政治が国民の未来を変えてくれる時代は、一体、いつになったら来るのだろう。私たち国民の期待を達成できない政治に対する失望の大きさを、政治家は肝に銘じて欲しい。

 

 

 

 

「半沢直樹」以上に会社人生はドラマチックだ【1】

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会社人生、その中で、どれだけ様々な仕事をしなければならないかということを知ったら、誰もが驚くだろう。そこにあるのは、「半沢直樹」以上にドラマチックな世界なのだから。

私は、海外で仕事をしたいと言って鉄鋼メーカーに入社。当時の鉄鋼メーカーは、世界中に拠点を持ち、「商社をあごで使う」などと言われていた。希望がかない、60回を超える海外出張。フライトは全てビジネスクラス、羽振りが良かった。出張は、1回ごとに短くても2週間、長いときには2ヶ月。北米、欧州、インドが多かった。出張先で、次の出張を命じられて、世界を1周したこともある。

希望して海外業務に飛び込んだのだから、誰も助けてくれない。「社費で海外留学し、特殊教育を受けたのだから、おまえがやるのは当たり前」というのがコンセンサス。社員が数万人もいるのに、海外案件は、数人での対応。出張先のホテルから、本社に必死でメールを入れても、時差もあって、誰も読んでくれないなんて、至極当然。契約の調印に来た役員から「どこかに、いいキャバレーはないのか」と言われたことも。鉄鋼メーカーなんて、所詮、日本の高学歴を集めただけの多国籍企業。海外ではあまり役に立たないドメスチックな人間だらけ。切った張ったの海外事業は、商社に負んぶに抱っこだった。

「鉄は国家なり」と言われた時代に入社した時代錯誤な経営陣。第二次世界大戦で負けた腹いせか、戦略も戦術も無しにアメリカ鉄鋼メーカーを買収。これが大失敗。大金をアメリカに寄附しただけに終わった。鉄鋼メーカー衰退の原因は、こうした身から出た錆だった。

そうは言うものの、テレビドラマではないけれど、尊敬できる素晴らしい先輩や仲間もたくさんいた。そうした人たちが会社を支えていたのだ。実は、会社という組織のマジョリィティーは、「半沢直樹」的な真面目な人間。そこに、腐った「社内政治家」が混じってくることが問題なのだ。そういう輩を駆逐しないと、会社は崩壊する。そんな世界で長年生きてきた、そう、生き延びてきた私の会社人生を披露しよう。

高校時代までは、理系進学を目指していた。純真だった。しかし、なぜか金に目が眩み、腐った心で医学部を受けようとした。打算からの方向転換は、結局、上手くいかず、紆余曲折の末、中央大学法学部に進学。入学して驚いたのは、私大文系第一志望の学生の頭の悪さだった。わずか3教科で入れるのだから当然だが、とにかく勉強量が足りない。それなのに、多くの学生が司法試験を目指していた。身の程知らずにもほどがあるだろう。ただ、私も流されやすい性格だったので、とりあえず「郁法会」という司法試験受験団体に入った。それが、かえって、まずかった。卒業後も、受験勉強を続けているたくさんの先輩の姿を見て、司法試験への意欲が萎えてしまった。

思えば、当時の法曹のイメージは、今と違って「地味」。現在のようなアメリカ流の「企業法務」なんてない時代。国際性のないウルトラ・ドメスチックな世界だった。それで、司法試験はそこそこにして、英語と大学の成績(GPA)のアップに専念。これが、アメリカ留学のときに大いに役立った。

4年になる頃には、司法試験から完全に吹っ切れて、就活生として、会社訪問をしまくった。そのうちに、会社訪問慣れして、面接で落ちる気がしなくなった。訪問した会社全てに内定してしまったので、とにかく海外で仕事をしたいという本心に従って、最終的に「日本鋼管」に「新入社員代表」として入社。当時、日本鋼管の本社所在地は、郵便番号100番、東京都千代田区丸の内1丁目12号。地上18階、地下4階の自社ビルで、高層階から、皇居を眼下に見下ろす抜群のロケーション。まさかその後、リストラ担当として、本社ビルを売却することになるとは夢にも思わなかった。

地獄のような4年間の「工場での経理」を経て、入社5年目からアメリカのロースクールへ留学。当時は2年間という期間の制限だけだったので、法学修士号LL.M.)を2つ取ることができた。1年目は、ニューヨーク州郊外イサカにあるアイビーリーグの「コーネル大学」。美しいキャンパスと教養重視の大学。2年目はニューヨーク市マンハッタンにある「ニューヨーク大学」。こちらは実学重視。本当に楽しい日々だった。

ところが帰国後、なんと日本鋼管は、窮地に陥っていたのだった。請うご期待。

 

人工知能(AI)が法的に認知されるとき

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現在の法制度でも、人間ではないが、法律上人格を認められ、契約などの法律行為を有効に行い、権利、義務の主体となることができる資格(権利能力)を認められるものとして「法人」がある。銀行や商社、メーカーやメディアなどの様々な会社や、大学、協同組合、商工組合、公の事業を行う地方公共団体NPO(非営利組織)、NGO(非政府組織)なども法人だ。現代社会では、こうした法人の存在と、その法人による活動無しには、日々の生活を送ることができない。

社会が発展し複雑化していく中、個人による事業活動や個人が所有する財産に基づく事業活動では、スケールが小さすぎて、何事もなし得なくなった。このため、法律が、一定の事業目的を持つ個人の集団(社団)や一定の目的のために拠出された集合財産(財団)を、あたかも一人の人間の様に、法的に独立した権利主体、行為主体、責任主体として取り扱うことにより、一個人では到底なし得なかったようなスケールの大きい事業活動を行えるようにしたのが法人制度だ。

このように、すでに法令上、人間以外にも人間に準じた法的取り扱いをされる様々な法人があるのだから、近い将来、AIが進歩して人間を凌駕する知能を有するようになれば、当然、AIにも人間に準じた法的な取り扱いを認めざるを得なくなるだろう。もしかすると、AIのための法制度の構築を担うのは、AIかもしれない。

いつの日か「AIの、AIによる、AIのための文明」が、「人類文明」に取って代わるときがくるだろう。

知能指数(IQ)

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昔は、中学のときに、「知能検査」と「職業適性検査」があった。当時、教師が「知能指数IQ)が140以上を天才というのだ」と言っていた。実は、私がそうだった。IQのせいか、職業適性検査では、不適性な職業無しという結果だったことを覚えている。

IQ140以上と言っても、進学高校に入った瞬間に、成績が下がる例など、いくらでもあるようで、私も、入試では4番で(A、B、C、Dの順で)Dクラスになったのだが、入学早々の実力試験で順位が下がって、ひどく落ち込んだ。

高校までは、あまり勉強をしていなかった。そう、ガリ勉とは真逆だった。ところが、高校では、そうはいかない。頭がいい奴ばかりだからだ。そこで悟った。そもそも、IQが高いということは、足が速いということと同じようなもので、人間としての出発点に過ぎないことを。それをいかに伸ばすかが、重要なことだということを。

おそらく、昔、社会全体の教育水準があまり高くなかった頃は、IQが高いというだけで、そこそこ優れてみえたのだろう。しかし、現在の社会や教育の仕組みの中では、IQが高いだけでは、勝負にならない。努力する人間には勝てないのである。

私が卒業したコーネル大学の大学院は、世界中からトップレベルの学生を集めている。IQは高くて当たり前の世界。しかし、そうしたIQの高い人間が、起きている時間のほとんどを勉強に捧げ、自己研鑽に励み、互いに切磋琢磨している姿を見て、自己管理をして真摯に努力する能力は、IQに勝るということを思い知った。そうした集団の中で勝ち残り、さらに、上の集団へと進んで行く中で、最後まで天才と言われるレベルの人間こそが、本物の天才ということだろう。IQのスコアしか売りのない人間が天才なんて、おこがましい話だ。

そもそも、IQのスコアしか取り柄がないということでは、どこかの国の「白人至上主義者」と同じではないか。

アメリカの大学に関する都市伝説的な誤解【2】

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アメリカの大学生は、日本の大学生とは比べものにならないほど、よく勉強すると言われている。一流大学に限って言えば、これは事実だ。そこで、アメリカの一流大学の学生が、なぜよく勉強するのかという理由について説明しよう。

米国の場合、4年制の学士課程(学部:College)は、日本の高校に近いと考えるのがわかりやすい。米国でエリートと呼ばれる経営者、弁護士、医師、一流技術者になるためには、4年制の学士課程を卒業した後、文系大学院であるビジネススクールロースクール、医学系大学院であるメディカルスクール、理系大学院に進学して、学位(MBAJDLLMMAMDMSPhD)を取得しなければならない。

しかも、トップクラスの大学院に進学するには、GMAT LSATGREなどの共通学力試験での高得点と学部での高成績(ストレートA4.0に近いGPA)が不可欠。そのため、4年間の学士課程では、日本の進学高校のように、勉強に明け暮れなければならない。

開成や筑波大附属駒場、麻布、灘などにあたるのが、ハーバード、イェール、プリンストン、コロンビア、ペンシルバニア、コーネル、ダートマス、ブラウンの8校のアイビーリーグスタンフォードMITなど。そして地方の名門進学校にあたるのが、バークレイ、ミシガン、バージニアなどの一流州立大学や、アマースト、ハーバーフォードなどの一流のリベラルアーツカレッジだ。

ハーバードの学生でも、4年間の学部時代の成績が悪ければ、名もない大学院にしか合格できないというのが現実。いずれにしても、アメリカでは学部卒の学士(Bachelor)の学位では、エリートへの仲間入りはできないということだ。